本部員別席講話 理の御話     第二

    私の様な届かぬ者が御承知の通り結構な理を取次ぎさして頂くのは届き兼ねますが入り変り立ち変り御別席をお運びになりまして、その話の中に充分心を澄まして人間心の汚れてある所を払い清めてその美しい心、天の理をお渡し下さるのであります。

 

    そこであちらから澄んだ水こちらから澄んだ水を持寄り、澄んだ水あちらから一升こちらから五升と持ち寄る。何程あっても寄り来る水はいくらでも飲ませる。五人六人澄み切りた水の中に一人の濁りの水が入れば良い水も共に飲めなくなる。道もその通りで十分心澄ませねばなりませぬ。道の中に邪魔になるとおっしゃる。じぶんの心に埃ありては道にはなりませぬ。そこで水に譬えて見ようなら水のように心を澄まさねばなりませぬ。

 

     この別席というは、国の為人の為にお助け一條のためお伝え申すので御座います。お助け一條の話は、身体は神の貸物、人間からは借物、我が物は心一つ、その心が違うから天の運びも違う。御別席運ぶのは人に聞かすよりも自分の心澄ますが肝心や。この話は皆諭しや、悟りや。人間身の内の守護を人様に話が出来ても銘々の心にすみやかなる様に充分心に聞分け会得して、今日はどういう理であったと後で心に尋ねて治めねば忘れます。

 

      この道、天より諭す話は悟りが肝心の土台、御一人の真実話が万人の助けの台になる。自分が精神倒せば自分のそそうとなるも、精神一つで自分が失敗した事は辛抱して通るたんのうして通るが、人に不足をつけたり恨む心は懺悔の道にはならぬ。この道人に諭すまでめい/\の心に悟るのが第一で御座います。

 

     人様に苦しみある時には、その苦しんでいる人の心を察して神様にすがり付き所謂同情心をもって助ける心が肝心やとおっしゃる。このお授けを頂くまでに充分と神様の話を聞いて、この月御別席運んで九ヶ月経ちて頂けるのでございます。一席の話は先ず三十日といたします。そして三十日間、心に守るのです。聞いた話はうちへ帰りて内々へ伝え、この度の話はこう云う理やこういう話やという事を、うちに残りて働いている者に諭せば、そうかそうか今までのお話を聞けば今まで澄んだと思うていたが、この度の話を聞いて成程という。

 

     一人の心澄んだら家内中澄み切る。折角遠方遥々帰りてお話を聞き、家へ帰って一つも話せずにいては何にも理にはならん。何程結構な清水のお話を聞いても内々の濁り水に濁ってしまうようになる。十里二十里運ぶところ、丁度雨だれ落ちの様なものや。遠き事情、近き事情、遠き所は二度、近き所は月々に一度ずつ、百里以上ある所は二度で済みます。千里からある所でも三里五里十里ある所でも、同じ様にお授けを下さる。

 

 人間で思案いたせば重い軽いの理がある様に思うなれど、心の勤め働きというところ薄い濃いは皆めい/\の心にある。近き遠き違うお授けやない。一席の話、家内中に充分伝える。そうか/\十分結構や、うちはまだ/\すまぬ。それまでに心すんだと思うていたなれど、まだまだ埃あるという。銘々の心に悟ってざんげして心取り換えるを、正しい誠の心という。

 

 この別席の順序済まして天よりのお授けを若き年寄り男女の隔ては無い。天よりのお授けは人を助ける道具になるので御座います。同じ徳は隔てはなくお授け下されますついてはその後はみなめい/\の心次第や。何にも身体に授かるのやない、頂いたその人の働く心によりて色々種々に分かれるのや。この道は授け人数の心次第でいかな手柄もさすと仰せ下されても皆心が分らん。これどうもならん。折角頂戴したお授けは心次第になってしまう。

 

 失せてしまうが、神は一度渡した授けを戻せとは言わぬ、返せとは言わん。自分に於いては失わんよう、ほってしまわんようにして、これこうして悪いと知りつつ否性分やの己の性質やのと地金を出すのは、心の底に澄んでない泥埃が残りてあるからや。こうなれば、皆折角の天の授けも心の埃で雲って何の光も無い様になってしまう。

 

 この別席のお授けは皆々の心次第になるものなれば、一番心進んで国家の為又は人の為に人様の難儀をしている分を助けさして貰う。我が家の用事を捨てて置いて恩も義理もない知らぬ人を助けるは効能という/\。今日は一つ効能、たのもしいという。今日一つ助けをさして下された、人が行ったから自分も行こうか、それは自分の勝手や、人情でいらん事に無駄興行を出して費やしたりして、真にその人の我欲の為に汗かいて働いている人に決まっている。

 

 この道というは我が家や自分の用事位を捨てて置いて、さあと言うたら早くお助けに行ってあげる。向うの家内中にしては大病の事ゆえ万人休んで唯病人の事許りに夜昼知れぬ用事の中に、お助けに行くは仲々の効能である。広い世界にこの道を措いて、他に恩もない義理もない何も知らぬ人をお助けに行った人は未だ無いので御座いましょう。

 

 人が悪く言うから笑うからと言う恥ずかしい心で行っては何にもなりませぬ。大病人の所へお助けに行くのは、大海の中で船が覆った中へ助け船に行くようなものや。さあと言うたら天より助けると仰せ下されます。この道のような助け一條の道は世界に又と一つありませぬ。

 

 別席中に聞いた事はある場合その場その場で浮かばして下されますが、神のお話を聞かぬものは浮きはせぬ。別席中に一々聞いて又忘れる所もある。また覚えている事もある。けれど一度聞いた話、真実の話は聞かしておかねばならぬ。又聞いて置かねばなりませぬ。平素に於いてはその心掛けが第一でございます。

 

 あととも知らず、先とも知らず、常々に親様の理を心に掛けて神の指図を堅く守るなら、その者が遠き所へ出て十里百里変った所へ出ても千に一つも難儀はささぬ、後と先とに神が付いて行くから、途中にて不意に難儀はささぬ、必ず守護するから安心せよ、そして追々と親元へつれて帰るものに話を聞かして置けと仰せありました。

 

 常平生は水のごとき清き心をもっておれば家内中に埃は立たぬ。綺麗で、日々澄みし心は人から見ても美しい。蝶よ花よと言われる羨ましいなあというのも人間息一つのものや。心という心が物をいう。澄んだ心に神が宿ると仰せありまして、あっちの家の夫婦も兄弟の仲も、三十日たてど/\親子喧嘩一つも夫婦兄弟の争い一つも言うた事もない。皆感心なお方じゃ、天理に叶うた家やと言うて他人の人達から、むつとして居るのに皆感じ合うという、そういう人達が物言うので天の理に叶う。

 

 家内中の誠の心が積り/\た理が天理と顕れて叶うようになるから、お助けに日々働かして頂くのは、真実の主人に真実の奉公人、常平素に心堅く守りいるなら人を助ける。我が家に不足はありませんが、助けにやらして貰うても内々に小言苦情の絶えぬようでは、人様の助けや諭しは出来ませぬ。

 

 内々事情なければ心に障りないなれど、身の障りは病患と言うて医者や薬やというて助けられるなれど、心の障りは誰も助けて呉れぬ。又誰も助けに行かぬ。助けに行って見れば難病で、助けて呉れと言うている者が世界に沢山ある。病人は、長者の中にでも苦しんでいる者が沢山ある。又結構に暮らしている者も広い世界に何人あるとも分らん。船は難船や、帆柱折れてもうどうしようやらというは晴天の白日にはない、暴風や、真っ暗闇の日や、助けに行ける所にある。

 

 晴天には禍がない、空曇りて雨風の日には難船が多くある。その中に乗っておれば。命だけ助けて呉れ、どうぞ命だけと宝も何も捨てて一大事の中にはまりて妻や子や後はどうするや知らん、否、今はそれ所かどうしてもこうしても行かぬ、もう大海の難船の中になれば欲の心も惜しいの心も何も無い様になってしまう。

 

 この道というはどういう難儀の中へも飛び込んで助けさして貰うのや。どういう所へ行くのはこの道の始めで、恰度この船も同様であった。剣の中も火の中も同じようなところ、火の中なら死んでしまう、剣の中や火の中へ入れば人間の力では行きません。人間の知恵や力で行かぬ所を助けさして貰うのは即ち神一條のお助けの話、万助けの台。

 

 天理王の命様助け給えと神名を呼出して願いをかけるのは一軒限り助け一條の取次ぎ話、町に優しく柔らかに真実をつくして前に申しましたごとく夜昼分たずお助け行くのは、これも我が為欲の為やない、なんでも助けたいと言うその心を天に受取り下さるのです。この度お助けわ世界に又と一つありやしません。神一條の話は取次ぎ次第、神は家内中の心を見澄まして助け下さる。

 

 願いを掛けるのは三日三夜が一番長い。又病の都合によりて三時間又一時間の事もある。皆取次ぎの話を聞いて後は心次第や。家内中の心を水に喩えて申すなら皆一遍に澄むものやない、この水は少し金気がある、泥水があると又元に良い水清水もある。家内中、水に喩えてみれば水のようにその中には少々の濁りのあるものもある。その家内中二度や三度で心すましきりたるものがあれば、遂には家内中も澄んでくる。

 

 最初一人のお話伝えるには、この話世界こんなものやこの道に於いてはこんな次第やと委細話せば聞き入れも出来るようになる追々段々について来る、遂には迷わず、仮令一人でも澄み切れば次第に親様までももっともやと結構なる道がついて来ます。

 

 ゆえに親様は一軒限りから一人限りから心次第のお受取りがある。神一條の諭す話は万助けの台、この道は病人だけ助けるように思うやない。家内中心助ける道、また医者の断り言うた後へ行って助けるには人間から見れば到底も及ばぬ所、無理な願いはして呉れなとお神楽本にもあるが、筋道の分らぬ所はゆきませぬが、いや忠義や孝行やと言う心でも病といえば助ける事はできぬ。

 

 また医者は死ぬ事の見分け見抜いている者には私は病は助けたいなれど寿命がないとか、又は変が来たとか言うて逃げてしまう。その弁解言うた、捨てものになった、その捨てた者に神は助けをさそうと仰せ下さる。ただ口先で天理王命と、口先位では助からん。苦しい話やつらい意見も聞かんならん、大事の人を助けて貰うのやから、苦い話聞かんならん、その苦い中に甘い味がある。助け一條の話、助け船なら船の中でただもう安心の出来る様。

 

 この大和にも沢山外国相手の船で以って寄せている沢山の品物、農家や商売家というて幾重にも分けてあって道々で勉強している。この道万助け、神一條の話、万助けの話は十人も二十人も番々雇うて出来なんだ位忙しい勤めささんならん。百姓凶作も皆病や、百姓の作物の煩いまで万助けの神一條の話、また縁談一條、普請一條、往来山の中平地また水の中、道筋通る中にこの度これで弱りている向う様の理を見分けて使わす万助け一條の道、神一條の話、よく悟らねばなりませぬ。

 

 人間身体の病ばかり助けるやない、心の煩いを助ける心の煩いは色々にある。心違いの理、身体に眼病も腹痛も難病も色々ある。身体悪くなって食う事も出来ぬ人もある。見る事叶わぬ者もある。心の病はこれ所ではない、ほかより見れば家倉立派に立て並べ着物食べ物何不自由ない様な、どこから眺めても立派や結構や、こんな家に住んでいる人は羨ましいという、見れば結構やがその所の家へ入って尋ねて見れば、その所の人は頓と思う様になりませぬわと言うて居る。

 

 人間はたから結構に見えても心の煩悩は誰も治しに来てくれる人はいない。人間心の理の埃、日々に暮らす中心の錆となる。皆ゆがんだ心、日々の錆、磨くに磨けんようになってしもうた。これまで日本に神様は沢山奉ってあれど心磨く神はない、なれどこの道の神様は人間を洗うて下さる。水と神とは同じこと心のよごれを洗いきる。人の心というものは人に見せる事は出来ねども天の理の教えを以って洗う/\、洗いきってしまう。洗いきってしまうて、その所で我が家は澄んだると思うても又々話を聞いて、まだ/\と心油断なくすまさねば、同じ所にじっとしてあればどんな清水も腐敗して使用ができませぬ。この度は心の腐敗や煩いをすまして助けて下さる。道筋心の病は八つの埃、病の元は身体ばかりやない、心の病、商方の失敗や、何業の不成立も精神の弱いからや、弱いのは煩いがあるからや。

 

 万助けの道筋、出世の極楽に教えて下された神様天理王の神様助け給えと申し上げ、(それより神様の御守護のお話あり、六柱の神様の御守護のお話ありて後)常平素に御同前こうやって自由用出来まするに六柱の神様が御守護下さるからで、右六柱の神様のお陰で目も見える物も言える、自由用叶う、五本の指のごとくや、どんな仕事もできる。一本病めば何も出来ません。五本の指は神様の守護し給うは皆この通りや。物食べて気分がよい、また生まれ変り出代り、大食天の命様に大斗乃辺命様は母親父親親子分ける神様と聞いたやろうとおっしゃる。

 

 自分で子供拵えるなら自分の思う様気立て優しい賢明なる充分の者と拵える。男なり女なりと思うようではあれど左様にはまいりませぬ。今の親子はな、育ての親子や。世界仕合い、銘々育てて貰うたらまた育て返すのや。それに違いないが心魂とは身体と共にひっついたる様に思う、どんなに離れたもので、心魂は天の理末代生き通りと言う事を聞分けねばなりませぬ。世界の有態は人間も万物も変り来るが天理は変りません。

 

 天の理の末代の理、天理はおれの(親様自身の)事や、月様日様や、皆昔から病まず死なず弱らずの神様 月日の御両方や、これは天の理、世界は変るという理聞分け。日々月々年々変る、この世の経って行く事ちょうど子供/\と思う子供が何時の間にやら皆親になってしまうようなもの、世界の状態は変る、天の理は変らんという。人間は一代限りと思うから水臭い気が出る。身は一代限り心は末代の理と伝えておこう。夫婦揃うてあって子の出来無い人と沢山ある人とあるは、前世の因縁聞分けねばわからぬ。今日は掛かり明日は生まれ月と悉しく前世の事は分らねど、一代だけは懺悔出来ますが前世の生れ変わり分らぬ。その所で癖の持たぬものはない。

 

 前世習慣ついてある。生みの親は育ての親、人間の育て合い、男の子女の子どうこう言わしよまい、一人の親や私の生みの親で御座るというても自分の胎内で自分の手で拵える様に言うても、顔見るまで男とも女とも言われません、分りません又親が見てもその子の夢命は幾歳何十まで居るという事も分らねば、自分で拵えるならば心立優しい賢い子を拵える、又もう子供が要らぬからと言うていても年子と出来て来て難儀している者もある。

 

 また中には子無しに不自由な人もある。またこの別席聞いて御座るが一代限りと心配してはどうもなりませぬ。追々に楽しみの薄弱となる身は一代、人の借りる身の内は神の貸物、また、我思うだけは我の理や。汗水に汚れた着物を着替えるのも同じ事、身は一代限り、心魂は末代の理、身の内は貸物親の子は親の思う通り思う様にならぬは借物の証拠、まだ子供ばかりやない我が身が思う様にならぬ、常平素西向き東向き出来る自由の身体一朝病めば自由用叶わぬ、如何程思うてもそれは叶わぬ。

 

 人間身上の理は十五才までは親の理、十五才より此方へは自分の通り来る理聞分け見分け。十五才より此方へ心得違いの道があるから顕が現れる、欲しい、惜しい、可愛い、憎い、恨み、腹立ち、欲に高慢、これ八カ条の戒め、人間身上の借物の理を聞分け、身の内の守護にて人間という男女同じ事、我心に銘々備え付けてある。

 

「この道はどういう事に思うかなこの世治める真実の道」十五才から皆心得違いがあるからや。八つの埃、手の先からも足の先からも頭の頂辺からも湧いて来るのは皆心が働くからや、口も手も足も皆遊んでいる、皆心次第に使う、違わん試してみよ。天が下は皆その通り。心が動き出す。心に人の優しき悪しき皆ついて廻るは理が廻る。

 

 世上世界は天の鏡、一人心通りや。蒔かぬ種は生えて来ぬ、主人忠義や親孝行や誠の人というも、娘様一人でも優しい娘や気質がいいというのも、その心の働き様が良いからや。また恐ろしい心にも理が廻る、人に害する事にのみ知恵を使うて好智に長けて人の出世の邪魔をする、知らん人と見れば後は叶わんから悪くする、それも皆その人の心の悪からするのや。

 

 善い人ならば人がしたら気の毒やこうせねば人が困るやろうと同情心に富んでいる人、皆その心が働く通り神は守護して下さるが、悪い事しても善い事してもその場限り一人限りということは更に無い、一代限りで終わらぬ、理に理が廻り倍の理がついて来る。生き通りの理を聞分け。これ分らんものはお助けは出来ぬ、助け一條の話を充分心に治めて人に説き聞かす姿勢は羽織袴改めるも同じ事。

 

 人間生れぬ先前世という事は分らぬが、その前世に生まれ変わり来てあるという日々働いた通り成って来る道、拵えた通りついて出て居る。善い事悪い事ともに前世の因縁、成す先の理を聞分ければ分ります。」

 

 この別席の順序の理も、身の八つの埃も皆大凡はお知りで御座いましょうが、遠い所海山越えて席を運ぶ、九度の席済めば天よりの授けを渡す。授けもろうたら国への土産人を助ける土台、真実世の人の手本鏡となって一人よりも段々と心澄んで行くでとおっしゃる

 

 前世よりの深きの理、理は思う通り山の中や野の中へも道付けに行きます。心通りでまた埃計りの理を知らずに今さえ良い良いと思うて遂に理は迫る。迫れば理ほど恐ろしいものはない。この世で作った理が心に付いて心の脊に背負って行く、罪だけ向うへ付いて行き家倉宝物は持って行けぬ、内へ置いて行かねばならぬ。

 

 理を聞分けて万たんのうして神一條にもたれて万助けの結構さ、一軒限り一人限り、お前所の家は誰も罪作りた事はないが、罪といえば人が忌み嫌う。人間住家掃き掃除拭き掃除怠りなければ綺麗やろう。人間で造るきたない心は神の方には埃と見える。

 

 悪気一條、人の身体が邪魔にはならぬ心が邪魔になる。神の守護も人の信仰も皆その心の善悪によるとおっしゃる。世界善気一條悪気一條とを諭して置くから、一軒の事他家の事我家の事に悟れ。世の中を見れば下々という、我家の事にあねへになったらどうするとおもう。その家の難儀の基はよく見えて我家の事は一向に分らぬ、折角に別席運んで天理の道を運ぶのに我が家々に埃があれば何と言われるか分らぬ。親様の御名まで汚す事があるからよくよく心得て通らねばなりません。

 

 例えばこれからの精神次第で百万円の日本一の真似の出来ん事も出来る。何とも知れず天よりとも知れず、天より寄るこの度の前世の良い方は、ずっと持って行くのやぜ、途中で埃のつく物を貰い受けん。こうして見れば山盛りあり、山程あっても手でつかめばとれぬもの、僅か手の内だけや。強欲思うても甘い事あっても理がなければ授からぬ。前世の悪い埃を皆払うてしまう。定まらぬ所は天より貸してやろう、心が働いて善悪の二途が出来る。

 

 心じっとして居ればまた木や石も同じ事、また物の欲しいというは身分過ぎたる好みをつけて分限すぎたる好みをするは欲の埃や。それは天の理の埃、理を砕いて諭せ、これはどういうものなら他所の畑に咲いている花を黙って折って来て我家の座敷へ活けるも同じ様、その場だけは綺麗や、無理して僅かに楽しんだだけのものや。

 

 十日二十日経てば枯れてしまう。無理して我が物にしたら遂には見えぬようになる、無理な事をやれば一年二年の間に皆かえす、折れて利子がついて行き倒れる。それからこの道になったら身分一杯精出して働き、旬刻限来たなら天理や。大人小人娘様と三つに悟り、男女大小に悟り自分に悟り、成る程の理が治まれば始めて人様に諭しが出来る。

 

 また諭しが出来るようになる。おしみというは、人間は皆この世へ仕事をしに来たのや、仕事は人間の業務という、務めせなんだらこの世へ盗みに来たのや。百姓は皆業をもって生まれて居る。その月々というお勤めなさる、一年は十二ヶ月。九つの道具並べてある。道具働かすのは勤め、働いたるその所で汚いことは人にさすは骨惜しみ。御教祖様は骨惜しみは名所に脇差と仰せになりました。

 

 庖刀ならば仮令ば物を切ってそのまま棚へ上げてあいさにに使うだけなら、その間に錆がついて却って早う使えんようになる。また一方は毎日使って却ってよう切れる。尚この庖刀の寿命は長い。月に一度位使って錆びて早く滅びるから荒砥青砥で砥ぐ、それで表からも裏からも腐りついて、磨けば地金が全くなくなって心が持たぬ、止むを得ず使えぬ、毎日使う方は青砥ばかりやから酷く減らぬ。

こちらは使わん、毒やから何の効能も積めてない、棄ててしまえば下駄の鋲か古金の中へ放り込み再びいい所へは出られぬ。

 

 人間身体もその通り、骨惜しみは心の重荷や、心で心配せんならん事や。身体で働く骨折りのせんならん事は逃げてしまう。楽しみで美味い事は一番先に飛んで行く、理に叶わん心の荷物も皆その通り。人間は皆この世へ働きに来たのや。よう勤めなさるというやろう。れに結構な、無病な身体で骨惜しみ、これほど埃はありません。人間の家へ行って長遊び、要らぬ時間を無駄に、向うに邪魔をして長遊び、暇を費やすは第一の埃や。

 

 人が物と思う。自分が物と思うてみよ、何にもならぬ、暇惜しまねばならぬ。廃るもの廃らぬように始末せにゃならん、出すべき所、成すべき所、義理人情を思わぬは埃や、銘々に丹精出して働いて着物食べ物調べて置くは理なれども、人には貸さず倉の隅の方へ入れて置くは天下の宝を持ち腐らしまた天下の宝を買うだけ。所々に重宝にする銘々の欲しい物を買い嬉しみ楽しみわ未だしもの事、人に貸さぬは銭に錆がついてくる、天下の宝は石瓦と同様になる。骨惜しみや身惜しみの埃や。

 

 すべて八つの埃この通り。この八つの埃を一々説けば長くなるからこの位にして、皆その心が働いて心で造って来たのが人に笑われたり嫌われたり、あの人は嫌いや、恐ろしい人やと言われたらそのなした理は皆背中へ背負って行くと仰せ下されました。身上ばかりやない、こわい災難三つある。火難、水難、病難である。憂い災難先は皆知らず/\の因縁で成って来る。この道の助けに皆心澄まして聞分けて呉れとおっしゃる。

 

  別席は人の変るだけで理は変りません。治まる所、同じ八つの心得違いの理は御教祖より教え下された骨惜しみ、始め掛りの時は成るだけ小さい所からすれば持ちなやみが安いところから懺悔というも心安い所から教えてやって呉れ、最初小さい所から言うてやれ、聞かしてやれ、最初から余り堅い事は分り難い、それだん/\と聞分けたら小さい信心が後には大きくなる。

 

 最初優しい所から六ヶ敷なる。六ヶ敷はいからせん、頼まらせん、段々と聞分けが出来てしまいには堅い/\信心となってくる。八つの埃もその通りや。初め一寸の埃が大埃になる。元は小さい事を始めたのはあの人は今はえらい出世した、一時にはならせぬ、富者になれぬ。病も初めはみじん埃がしまいに大病の元となる、大層となる。優しい事が六ヶ敷なる。善悪八つの埃をみな銘々それぞれ聞分け噛み分け善悪の道筋を明らかにして、御別席運んでお授け頂戴するのは本部は子供の親里、元の神様、その屋敷の結構さという事は常々心得ておらねばなりません。

 

 御教祖御一代の御苦労下されたのは皆人間子供に助け一條のためばかりで御座います。御教祖は可愛い御子達に御苦労さして下された一條の話もありますが、人間一代限りやない、生れ変り立ち変り返す/\の話を聞いて順序を運んで下された、大凡の事じゃ御座りませぬ。又、お暇の時には先生方にお話を聞いて精神定めて下されたので御座います。

 

 また八つの埃は日々に皆因縁となって皆持って行かんならん。御教祖この世一またげ。天より人に伝えられんから御教祖の御口を借りて教えて下された道筋は、皆心だけ生れて来た、今は清き美しき心になって奔走する理はもう一代十分受取る。親先祖家内知らず/\受け持ちて出て、様々の因縁ある。その道を通って果たさにやなろうまい。世界中は皆これ神様の子や我が可愛い子やとおっしゃる。

 

 神は何も悪因縁をつけてやりたくは無いが理が立たぬから皆共々に因縁としてあるとおっしゃる。皆前世の因縁の回って来た事なれば、どんなものでも皆通りかえし千度通らにゃならん。また通るに通られんというも皆内々につながってあるその因縁、何も知らぬ子供までも皆連れて行かねばならぬ事も出来ると仰せ給う。この神様の話はこの世の事ばかりやない、前世の事をも知らしてある。この世の事は皆分ってある。この世界、日本国の事に一カ国に縮めて悟ってみよ、中々に内の商売は邪魔になる。

 

 昼精出して夜一つ思案してみる。また世界の事をも思案してみよ。皆親先祖代々の因縁現れて、類焼という事がある、一夜の間に水ついて洗われた家もある。命まで失う人やまた結構なる家も屋敷も無くしてる者もある。また家についてある前世の悪しき表れ出てあるが助け合いで天の授け頂戴して年が年中働いて天の理に叶う心と入り換えて人を助ける心になれば、我が身も助かる事。また家内中同じ腹から生まれ出たものでも壮健な者も弱い者も在ると同様、因縁の成す業は外から誰もどうもせぬ言わぬけれども目に見えぬ因縁表れて居る。

 

 また結構にして居る内でも言うに言えぬ因縁があります。持って行って較べん計りや。この世一軒限り一人限り知らず/\の因縁、持って生まれて出た因縁でございましょう。この道今から三十年後々引合わして見よとおっしゃる。また世界の村の家々思案してみよとおっしゃる。一才や二才や罪咎もない子供から前世現れて居るものもある。

 

 一方可愛い子供育てる中に親の煩いとなる。親の煩いのために可愛い子供可哀想なものもある。世界中に幾程も苦労しているものもある。前世の因縁は山や木や土に表れぬ、赤土の屹立の山を雨の降る日に辷り落ちる者あるはどこそこの誰某は日の暮れに機嫌ようしていてもう死んだという。何程死にたいと祈っても死ねぬ。通る可く果たす可き因縁はのがれられやせん。その様になる基という、一遍や二編やない、前世何百編という。

 

 一才二才の子供にも表れる。それは皆銘々の心が働いて日々に拵えて居る。気立ての優しき器量よしの子供ばかり、君の内は果報者や、わしらの事なら寒い時には外へ出て行かぬ様にする、また暑い時にはさっぱりした着物や帷子や、着物は綺麗で食物はおいしい物ばかり、年老って気高い白髪の立派なるお旦那様と尊われて居るものも因縁なら悪しき事ばかりやない、良い事もあればまた悪い事もある。また師匠の大将は頭となって居る。

 

 また知恵というも持って生れるものやが、人は教えて貰えば皆覚えるけれど知恵というのはそうには行かぬ。持って生れた前世の因縁、前世の因縁にも善し悪しある。人に嘘やついしょう又親に不孝やら分らせぬ。皆心分りているものはありません。皆分らんどくにやっている。

 

 よろずよの道の次第はいろ/\にある、その道

 通らにゃなろうまい、はたさにゃなろうまい。

 

 可愛い我が子難儀の道通らしたい親はないけれども、前世の因縁なら通らにゃならぬ、通さにゃならぬ。親子兄弟どこへ行っても通らにゃなろううまい。二十年や三十年で子供死なしたいものはない。この世の災難三つある。「火難、水難、病難」という、むつかしいものや。お授けを頂けば今日どこそこに可哀想に病んでいるどうぞお助けに行ってあげて呉れと傍からその病人の助かる様に蔭から添えて願い、また助けに行く人の心の働きをして我子の助けて貰う事になれば何程の理になるとも知れん。それでまた我が家の因縁も切れる。

 

 他家の内の難儀を思うてお助けに行き、家内皆心を添えてこそ勇んでどんな運びも出来ます。世界普通の人とは違いますから、精神狂わんよう、また大儀大層は気の毒や。神は受取り出来ぬとおっしゃる。家内中において一人誠の種を蒔いて後一人不足しているは、理の物種生えやせん。ゆえに家内中澄み切った心を以って運んで下さればお受取りがあります。

 

 そこで貴方方は通りよい所は通る。通り難い所は避ける理の物種とはなりませぬ。河に例えての話であります。大河を渡るという、橋がないから帆前船をつけたら渡れるのに帆前船はなし、川中は二百間も三百間もある。向うへ行ったら好い所が見えてあるのにどうも渡れん所、それも知らずに世界は渡って中途で大水の為に流されている。向うへ渡らねば思いは遂げられん。その所を神は手を引いて連れて行ってやろうとおっしゃる。

 

 その所で、川向いに見えてあった宝が手に入った、思惑が叶う。また山の中、麓は畦道で楽や、細道から皆だん/\と山の中へ入ってしもうたら、山の中になれば段々上り峠は汗かかねば越せぬ。この世涯の中に二里も三里も山の中へ入って山の中の峠で日が呉れて、帰るに帰られん真の暗闇、どうど峠の前で皆獣に食われてしまう者、これ前世の因縁、それ誰も通れん山も河も渡ったとおっしゃる。

 

 あの六ヶ敷誰にも通れん中、まあよう通ったなアと言うは神が通してやったのやとおっしゃる。そこであこの人は雛形や、天理に叶うたからその事天理光り輝くという。その所まで行けば楽しんでくれ楽しんでくれお授け渡せば天が働くでその所でこの道は天然という。二年三年経てば天然の中につくした理が皆見えて来るから、長い思案で遠き深い気を以って幾十年という所、変らず通り抜くという、あの人は手本雛形という。天よりの授けは人を助ける結構な天の理、皆勇んで附いて来い。前世の因縁皆愛想つかさず通りにくい所通りぬけるのが前世の因縁果たすのであるから、前世の因縁の懺悔合をして互に楽しんで心を勇んで通ってくれとおっしゃる。