本部員別席講話 理の御話 第四

  教祖様御存命中は一人一人に御話を頂戴いたしたのでありますが、そんなにして居ってはたの多勢の人に迷惑をかけるので、今では一度に大勢の人に「取次ぎ」からお話をすることになって居るのであります。

 九席運んでお授けを頂いたならば、神様の代理となるのであります。神様は一人一人に理をお諭しになるという事は出来ないものであります。それゆえ、お授けを頂戴したものはこの心を以て、神様のお話の理をしっかりと胸に納めて貰わねばならんのでございます。

 

 教祖様には「別席運ぶ人たちには静かな所でしっくりと話しをして聞かしてやってくれ。」との御言葉でありましたので、こうしてお地場で静かな別の席を設けて、皆様に神様のお話しをば取次がして頂いて居るのであります。

 さて、神様にはこの世界この人間を始め出したのは、大和の国の山郡庄屋敷村であって、その中にも中山家が元々因縁ある世界始めの屋敷であると仰せ下されます。それで、お筆先の中にも、

 

 このよふのはじまりだしはやまとにて

   やまべごふりのしよやしきなり

 そのうちになかやまうじというやしき 

   にんげんはじめどうぐみえるで

 

このどうぐいざなぎいといざなみと 

   くにさづちいとつきよみとなり

 

つきひよりそれをみすましあまくだり 

なにかよろづをしこむもよふを

 

と仰せになって居りまして、その元々の因縁ある中山家へ神様が天降りなされて御教祖様に神懸りがあったのであります。そして世界助け万人助けの道をおつけ下されたのでございます。それゆえ、このお地場には、世界をはじめて拵えた証拠ためしに甘露台を造っておくと仰せになりました。このお地場は世界で唯一つしかない元の地場でありまして、このお地場より外に神様のお言葉を承り理を頂戴する所はないのであります。

 神様のお話しは何も六ヶ敷いこと言わぬ。それで十柱の神様を祈ってはあるけれども、唯一言天理大神様とお称え申したならばそれでこの十柱の神様を拝むことになるのでありまして、十柱の神様のお名を一々申上げては子供や無学な者などには分らぬものもあれば、また、むつかしいので、それど唯一言天理大神様と称え易く教え下されたのでございます。

 

 神様は人間が日々に楽しく陽気遊散に暮すのを見てお喜びになり、またそうして人間が面白い可笑しく暮してくれるようにとこの世界をお造り下されたのであります。そして人間が神や神やと言うて神を崇めてくれるようにとの思召しから、この我々人間をお拵え下されたのであります。所が人間はだん/\と年限の経つに従って悪気の心が出来、その悪気に悪気が重なって、ただ我れさえよくば人どうなってもかまわんと言う様な心になって、身ひいき身勝手な事を思ったりしたりして通っておるのでございます。それを天の神様が御覧になって、そんな心で通って居ればしまいには因縁に因縁を重ねて遂に身動きも出来んようになる。それがいじらしいてならん、可愛そうでならんと思召しになって、この度の道をお説きになったのであります。

 

 それで我々はお互いに神様より拵えて頂いた人間であるから、お互いは皆兄弟である。兄弟であればお互いに助け合にゃならんのに、我さえよくば人はどうでもと思う様な心になっては、何時も睦ましくせにゃならん兄弟が何時も心と心とで鎬を削り合って通らねばならんのでありますゆえ、神様は御教祖御一人の御身に神懸り遊ばされて、元々人間始めだしの因縁から万委細の理を我等にお聞かせ下されたのでございます。それで、人間造り始めた元の親である、月日両親神様のおっしゃることは皆誠であって、そのおっしゃる事には滅多に嘘はないのであります。それで御言葉にも、

 

このよふをはじめたかみのことならば

千に一つもちがうことなし

 

とも、仰せ下されてありますゆえ、皆様も神様のおっしゃることには滅多に嘘はないと面って、よくお話を聞かねばなりません。

 

 神様は「人間身の内は神の貸物借物、心一つが我がの理」と仰せ下されまして、その他人間身の内によらず世界のもの万一切は皆神の貸物、神が人間に貸し与えてあるものであると仰せ下されます。そこで我々人間はその貸し与えて頂いて居る万一切のものを、我々は働いて使わして頂く事も出来ればまた取る事も出来るのであります。

 

 それゆえ、我々は充分働いて神様の貸物を充分に貸して頂かねばならんのでありますが、しかしなんぼ財産や宝が山の様にあっても、我々の死んで行く時にはその財産も宝も持って行くという事は出来ないのでございます。神様は我々人間は皆神の子であると仰せ下されますから、同じ親にして見ればこの子可愛いてあの子憎いという区別はない、皆同等に可愛いのであるから、誰にも皆平等に万一切のものをお与え下されてあるのでありますが、それに不自由せなければならん、難儀せなければならんというのは皆我々の心一つからであるのであります。この広い世界を見渡しますと、財産宝の山のようにあっても、食うに不自由なく着るに不自由ない結構な家に生まれて居っても、不自由/\で一生を送らねばならん人が沢山あります。

 

 即ち身体は錦の蒲団にくるまっていても身体が弱くて始終病の床で暮さねばならん人などは、この身体一つの借物が思う様に貸して頂く事が出来ないから、金銭財産は如何程沢山貸し与えて頂いて居っても、この世を不自由/\で泣いて暮さねばならんのでございます。そして、やれ医者よ薬よと、要らぬ事にばかりその財産を費やして我が身苦しんで行かねばならんのであります。

 

 これというのも貸物借物の理が分らんゆえ、心に誠がないがためでありまして、日々に不足/\や色々の埃を使って通るから、その埃に埃が重なって悪い因縁となって皆心通り身体に表れて来るのであります。若し、お互いが日々に誠一つの精神で通って居るものでありましたならば、その誠で出来た身代は減るためしもなくまた要らぬ所へ消えてしまう様な事もなく、また家内中誰一人として病み煩いするものはないのであります。そしてその日々に使う誠の心は、お互いの霊魂に徳となってつき惑い、末代生き通しであります。形の財産や身代というものは人に盗られる事もあれば又火に焼けることもある。けれども心についた霊魂の徳というものは落す事もなく焼ける事もなく、また水に溺れるという事もない、何時まで経っても何代生まれ変わっても、その人の徳はその人の心に附きまどうて来るのでありますから、難儀しようと思っても難儀する事は出来ない。病もうと思うても病む事は出来ない、何時までも陽気な楽しい道がついてくるのでございます。それで神様も、

 

なんぎするのもこころから  

わがみうらみであるほどに

 

 と仰せ下されてあります。我々はなんでも、この形の上の身代ということよりも心の上の身代という事に重きを置いて、日々は誠一つの精神で通って日々に徳を積むという心掛けを忘れてはならないのであります。

 

 神様は「たんのうは前世因縁のざんげ」と仰せ下されてあります。我々人間は日々暮すなかにおいて、我が身たんのうという事を忘れてはなりません。お互に、上ばかり見て暮すゆえ我が身不足になって来る。その不足が身の不足となって表れてきて、不自由難儀もせにゃならん。自分よりも下の事ばかりを見て通ったならば、我が身たんのうは充分にできる。

 

 この世界には食うに困っている人もある。また食うに困ってまだその上に病み煩いして居る人もある。難儀中の難儀、不自由中の不自由、どんな中をも通って居る人がある。それを見て日々に通ったならば、衣食住もそこそこにさして頂きまた身上も達者に暮さして頂いて居れば、これほど結構な有難い事はない。

 

 皆上の事ばかりを目につけて何が足らんかが足らんというて、不足/\を積んで居るのでありますが、我が身より下なこんな人々の事を思うたならば、どんな中も不足は言えんどんな所も喜び勇んで我が身たんのうさして頂いて通る事が出来るのであります。そこで、こんな人達を見たならば「ああ気の毒に」と言うて我が身に引きくらべ、義損金とか同情金とかいう様な同情の心が湧いて来るのであります。

 

 斯様にして常々に人を助け救うて行くので、我が身も何所かで助かって行くのであります。世界の人の諺にも「人を助けたら敷居の下から返る」という事があります昔ある人が、人を助けたから何でも敷居の下から返るに違いない、それで何が出るだろうかと一生懸命に敷居の下を掘ったが遂に何も出なかったという話しがありますこれは何も人を助けたら敷居の下からものが出てくるのじゃありません。

 

 四季の下からという事でありまして、即ち春夏秋冬の四季の中に何時とはなしにその理が我が身に帰って居るのであるという意味であるのでございます。百姓ならば農作の収穫の時に虫のつく所が自分とこだけは虫もつかず、ひでりで枯れる所も枯れないで、天然自然の理で自分の所へその理が帰って来る、また一寸したことで怪我をせにゃならん所も怪我せずに済み、また病気病難憂い災難という様なものにも罹らず平常も達者に暮して行く事が出来る、それ即ち四季の中に何時とはなしに我が身知らず/\の間に皆自分に帰って居るのであります。

 

 また、大難にかかる所を小難に、小難の所を無難にと免れさして頂く事が出来るのであります。それで「人を助けて我が身助かる」とも神様は仰せ下されてあります。何も人を助けたからとて、金銀金銭で神様はお返しは下さらぬが、四季の中に天然自然をその理は我が身に返って、我が身助かるということになるのでございます。それゆえ日々はお互いにたんのうをして勇んで通らして頂くと共に、また難儀な人や不自由な人達を見たならば、我が身に引き較べてそんな人達を救うて通らねばなりません。人間は皆々神の子と仰せ下されてあるのでありますから、お互いは皆兄弟、兄弟ならば互い助け合いをして人の難儀は我が身の難儀と、人を助けて行くので我が身が助かるのでありまして、この心が誠であります。それゆえ、日々はこの誠一つの精神で通って行ったならば、神様は必ず御守護下さるのでありまして、誠一つが天の理でございます。

 

 お書取りの中にも、

「誠一つは天の理、天の理ならばすぐと受取り、すぐと返すが一つの理」と仰せになって居りまして、天の道の誠一條であります。誠は何時も変わらんのが誠でありまして、天の道は何時も誠一筋で変わることはありません。春がすぎれば夏になり、夏がすぎて秋になる、一年三百六十五日、春夏秋冬という理は整然として何時の世であっても、何代経っても一つも変わらぬのが天の理であります。何時の世であっても、どんな豪い人が来ましても、春の先に夏を持って来るとりう事も出来ねば、また秋の後にすぐ春が来るという事もありません。

 

 この整然として順序を代えるという事はなく、何時までも何時までも同じ変らぬ理で、治まって行くのが天の理、誠一つでございます。それゆえ、誠の人とは変らぬ人でありまして、口と心と行いとの三つがちゃんと揃って違わぬのが誠の人であります。口でなんぼ賢い事や立派な事を言うても行いが一致せなんだり、心が悪かったりしては誠の人とは言えません、世界にはよく「あの人は口が上手だが行いがなっていない」とか又「口と腹とが違う」とか言われておる人がままありますが、そんな人は皆誠の人ではなく、この口と心と行いとの三つが一致しなければなりません。

 

 御本席が、ある時米粒を三粒手のひらにのせて「人間はこの米粒三粒の様でなければいかん、これは口と心と行いとの三つであって、この三つが揃わにゃならん。」とお側の人にお教えなされたことがありました。今日の世界ではこの三つをちゃんと揃えて行く人が少ないのでありまして、よく世間でも云う「人を見れば泥棒と思え」という諺は、世の中の人はこの口と心と行いとが揃うていないという事を証拠立てて居る様なものでございます。それでありますから、この天の道は誠でありまして、人の道もまた誠であります。即ち民は君に忠をつくし、子は親の孝をなし、従僕は主人に従うというのが人の道でありまして、経典にも、

 これを君父にしては忠孝と言い、兄弟にして悌友といい、夫婦にしては和順といい、朋友にしては信義といい、一般人類にしては仁愛という。要は、自己の心を誠にして他に対するの謂い外ならず。

とあります。この人の道はいかなる人にもまた如何なる所にてもまた如何なる時にても一つも変る事はないのでありまして、これが即ち誠の道であるのであります。即ち誠とは変らぬ理が誠でありまして、人と所と時とによって変るような事では、そりゃ誠とは言えんのでございます。

 

また、同じお書取りの中には、

「誠とは、一寸見れば弱いようなれど、これほど堅い長いものはない」

と仰せ下されてあります。誠の心、誠の人は一寸見れば弱いようではありますが、これほど強い確かなものはありません。悪の心は中々勢いが強くて豪いようではありますが、悪は短く誠は長いものであります。これを今水で譬えて申しますれば、誠は清水でありまして、悪は泥水であります。

 

 五六日雨が降ったとして御覧じろ、河には山から流れてきた泥水が豪い勢いで流れてきます。その勢いは中々に強い、大きな土提でもその勢いで打ち壊してしまう。こんなに強い勢いの泥水でも、それが長らく続くかといいますればそう何時まで続くものではありません。一週間か十日、長くて十五日か一月も続かん。そしてその後は何かと申しますれば、一時泥水に濁されても、元の清水がまた流れて来ますでしょう。

 

 この清水はいうものは、誠に弱いものでありまして、あちらの木の葉、こちらの木の葉の雫が落ちてそれが谷間に集まり、小さい流れとなって流れ出し、木の葉や枝の枯れ落ちた中を潜り/\て小さい川に出で、それがあちらへ当ってはこちらへ曲り、こちらへ突当たってあちら折れて、曲り/\て流れて行きます。泥水の様に土堤でもぶち壊して行く様なそんな豪い勢いは到底もない。曲り曲って流れて行って、一寸見れば誠に弱いようであります。けれどもこの清水というものは、いく百万年昔の世界始まった時から、まだ一分時間とてもその流れが絶えたという事はない。

 

 そしてこれからもまた何百万年向うへ絶える事なく流れ/\て行くかも分りません。また御天気の時でも雨の時でも量を変えるという事もなく、また人がそれで口を漱ぐ事も出来ます。さすれば、泥水は勢いは中々に強くて一寸見れば豪い様ではありますが、それほんの一時の事だけでありまして、清水は弱いものではあるが、何時まで経っても切れないものでありますから、弱いようであって却ってこれが強い、長いものであるのでございます。

 

 それゆえ、神様は「誠は一寸見れば弱いようなれど、これほど堅い長いものはない。」と仰せ下されたのであります。世間もその通り、悪は一時栄えて悪人が跋扈いたします、その時は誠は消されて誠の人は見えませんが、そうそう何時までも悪は栄えるものではありません。何時か衰えて正義人道=誠が表れる時が来るのであります。

 

 それですから、一時人を倒してでも我さえよければ人はどうでもという様な心を使わず、何時も細く長く続く様にしてまた人を損ねぬ様心を痛めささぬ様にして、低い優しい心をもって通らねばなりません。水は低い所へ/\と流れて行く、人間も低い優しい心さえ持って通ったならば人を損ねる事も害する事もありません。そして何時も変らぬよう、誠一すじで通ったならば、天然自然に我が身に徳というものが備わって、知らず知らずに人様から崇められ尊まれて通る身とならして頂く事が出来るのでございます。

 

 けれども、人の心というものは、そう一遍に立派な人間となる事は出来るものではありません。お話を度重ねて聞いて胸に治め、我が身行ってだん/\と会得さして頂くものでありますから、日々に心変らぬよう、誠一筋で通らして頂くよう、油断せずに通らねばなりません。それゆえ神様も、「日々という、常という、日々常に誠一つ」とも仰せ下されてありまして、如何程の前へまわって一生懸命に拝んだとて、また如何程立派な事をいうたとて、日々常の行いと心使いとが悪かったならば何にもなりません

 

 わしは信心家やというてもそれは真実の信心ではありません。真実の信は日々常々にあるのでございます。日々常に悪い心を使わぬ様、ああ今日は埃を積まなかったか、悪い事を思わなかったかと夜寝る時に思い返して、ざんげせねばなりません。さすれば如何程徳の無いものでも段々と徳をつけて頂く事は出来ます。

 

丁度神様の仰せになった。

「荒木見れば見にくいもの、仕上げたら立派な柱になる。」

と仰せ下されて通りでありまして、これを譬えようものなら丁度この笏板の様なものであります。この笏板は始めから何もこんなに美しいものではなかったのですが、荒木から仕上げて、荒かんなをかけ又その上へ中かんなをかけ、まだその上に上かんなをかけてその上にまた磨きのかんなをかけて色々と手入れしたのでこんなに美しくなったのでありましょう。

 

そして持って居れば持って居るだけそれだけ段々と磨かれて、光沢が出て来ます。このように人間も始めは埃だらけの角だらけの人間ではありますが、このお道のお話を聞いてだん/\角がとれ埃がなくなって、心が磨かれて来るのであります。そして、それが我が身の宝、我が身の徳となって来るのでありますゆえ、日々という所常々の所を充分に心して油断なく、通らして頂かねばならんのでございます。

 

 皆様は九度のお席をお運びになる間に、しっかりと精神を定めて、十分の理を胸に治めて置かねばならんのであります、十分という理は一杯の理、八分位では一杯とは言えません。八分位では人が何かと言うとそうかと思い、ああやと言えばそうかと思い始終人の言葉位によって自分の心を動かさねばならんのであります。それではしっかりした心とは言えますまい、八分位であるから一寸人に振られるとチャプ/\と中が鳴る、しっかりした理とは十分の理でありますから、十分入って居れば譬え人にどんなに振り廻されてもチャプとも鳴らぬ。心に十分の理を詰め込んで置くので、どんな場合も幾重事情どんな理にも心動かされぬしっかりした誠一條の理で通って行く事が出来るのでございます。

 

 それゆえ、お席九度の最中はこの十分の理を胸に治めるがためでありますから、九席運ぶ中においてはどんな事が出来てもそれは「見て一つ、聞いて一つ、通って一つの理」と仰せ下された神様の尊きお試しであると自覚して、お授け頂くまでに十分の理を治めねばならんのであります。

 

 お授け頂いた人は、今日その御名代、神様の御名代でありますから、またそれだけの心を以って通らねばなりません。ただお授けだけを頂戴したというだけでは何にもなりません。結構なる神様の代理として立たして頂くのでありますから、誠真心の精神を以って低い優しい慈悲の心を懐き、人を助けさして頂くためには我が身我が家の事を打ち放つといても人様の難儀を助けさしていただくという様にして、一家中は普段、皆々睦まじく互に立合い助け合いの実を挙げて、世の人所々の人の手本雛形とならねばならんのでございます。

 

 お授け人は神の名代であり、「所々の手本雛形」と神様が仰せ下されてありますのに、そのお授け人はただお授けを頂いたというだけで何の効能もない様では、何のためにお授けを頂戴したのか分らぬのでありますから、日々常々に誠一つのこころを以って口と心と行いの三つをちゃんと揃えて通り、世間の人から「ああ成程の人やなあ、成程の理やなあ」と言われるようになれば、それ神様の御名をも上げるという事でありまして、それでこそ始めて道の人、教祖の後を慕っている人という事が出来るのであります。

 

 それゆえ、日々にいろ/\の事が湧いたり起こったりする毎に、お互い聞かして頂いた御教理を思い出してみて、よく我が胸に思案して見ねばなりません。何をするにも、先ず神様のお話に照らし合わして見るという事が肝心であります。それで、

お筆先にのなかにも、

 

しんじつにかみのこころのせきこみは

しんのはしらをはやくいれたい

 

このはしらはやくいれよとおもえども

にごりのみずでところわからん

 

このみずをはやくすまするもようだて

すいのとすなにかけてすませよ

 

このすいのどこにあるやとおもうなよ

むねとくちとがすなとすいのや

 

と仰せ下されてあります。この胸に、銘々がよく照らし合わして通ったならば決して誠より外れるという事はない。よく世間で病気病難で苦しんでいる人があります。これは常々にこの誠の心を忘れてしまって、自分の身勝手な考えばかりを使って来ているから、こんな災難にあって苦しまねばならんのであります。

 

 世間では悪い事をすれば法律があって、監獄と云う牢屋の中へ入らねばなりません。しかし、心でして来た事や思うて来た罪はこれは法律で罰するという事は出来ない、その代わり天の理というのがあって、その天の理に逆らった心の者は直ぐ神様から寝どころという牢屋の中へ放り込まれねばならんのであります。

 

 神様は「身は神の貸物借物、心一つが我がの理」と仰せ下されて、自分の心一つによって我が身楽にもなればまた我が身苦しむ様な目にも合わねばならぬと仰せ下されます。我々は皆神の子供、一列は皆同じ可愛い神の教え子でありますから、神様はあの子可愛いいてこの子憎いという分け隔てはなさらない、けれども自分の心一つから病み煩いもせにゃならんし又隔てられもせにゃならんのでございます。それを神様は子供可愛いの御心に余りて我等の借物であるその身上に第一に知らして下されます。「心通りの守護」と仰せ下されて、我々の心通りに皆身上に表し下さる、それで病にかかるその元というのもこれは皆我が心一つが台であると教え下されて、お神楽の中にも、

 

十ど このたびあらわれた

やまいのもとはこころから

 

とお示し下されてあるのでございます。

人間十五歳までは親の懺悔、十五歳からの心得違いは皆我が身にかかる」と神様はお教え下されました。十五歳までの身上病みは両親の心得違いでありますが、十五歳からの身上病みは即ち我が身の心得違いを神様がお教え下されてあるのでございますからその心得違いをよく思案して懺悔さして頂いたならば身上の病は直ぐ助けてもらうことは出来るのであります。

 

 けれども、この世十五歳からの心得違いは直ぐに懺悔さして頂く事はできますけれども、前世の因縁心得違いというものはどんな悪い事をしているのやら通って来ているのやら分らぬものでありますから、そう今世の心得違いの様に直ぐ懺悔するということは出来ません。

 

 そこで神様は、「見るに見られん、見せるに見せられんは前世因縁の懺悔」とも仰せ下され、また、「神は五代以前よりの心得違いを説いてやりたい、なれどそれを銘々聞けば我が身ながら恐ろしくて、この道について来るものがない。それで子供可愛いに余り、神は何にも言わぬ、その代わり口で説くよりも明らかに皆銘々の身上に表してある。」と仰せ下されました。

 

 お互い皆因縁の表れた時はよく天の理を思案してみて、我が身前世の心得違いの道を自覚して、誠の道を踏んで暮らして居れば神様は前世よりの因縁によって表れる大難を小難に、また小難を無難にとお通し下されるのであります。また一時に豪い病にかからねばならぬ所でも何遍にでも分けて病まして下されてお助け下されて、だん/\とその因縁を納得さして下されるのでありますから、どうしてもこうしても日々は誠一筋の精神を以って、人を助ける誠の道を踏まして頂かねばならんのでございます。

 

 神様は病気になっても何も医者にかかるな、薬を飲むなとおっしゃるのではありません、なれども、身は神の貸物借物、神様の御守護によって生きさして頂いて居るのでありますから、折角飲んだ薬もその薬を痛み所へ神様がお廻し下さらなかったならば何にもならない、それでその薬を効き目よくさして頂こうと思うにも、神様のお話をよく聞いて成程身上は神様の貸物借物であるからと悟って、神の自由用を会得せなければ御守護を頂くという事は出来ないのであります。

 

 我が身が我が物であれば自分の思う様にもなりましょうが、我が物の様であって我が身の物でない証拠に、可愛い子供に病ましてそれを苦しむ親もあればまた恩ある親の病気を助ける事も出来ずに苦しむ子供もあります。まだそればかりか、現在我が身の身体であっても病気になればそれを自分の思う通りに治すという事は出来ない、これ即ち、身上というものは我々がただ使わして頂いているというだけの事であって身上は神様の貸物であるという証拠であります。

 

 そして心一つだけが我がの理でございますから、その心の使い様一つによって助かる者もあればまた助からぬ者もあり、幸せな者もあればまた不幸せな者も出来て来るのであります。これ皆「心一つが台や」と仰せ下された通りであるのでございます。

次に、お筆先の中に、

このようはにぎわしくらしいるけれど

もとをしりたるものはないので

 

このもとをくわしくしりたことならば

やまいのおこることはないのに

 

なにもかもしらずにくらすこのこども

かみのめへにはいじらしきこと

 

なににてもやまいというてさらになし

こころちがいのみちがあるから

 

このみちはおしいほしいとかわいいと

よくとこうまんこれがほこりや

 

このようのにんげんはみなかみのこや

かみのゆうことしかとききわけ

 

ほこりさえすきやかはろたことならば

あとはめずらしたすけするぞや

 

しんじつのこころしだいのこのたすけ

やまずしなずによわりなきよう

 

と仰せ下されてあります。これは、我々の心というものは元々神様より頂いた者でありますから、始めは極く美しいものであったのでありますが、だん/\悪気な心が出来て来て不知不覚の間に色々の心得違いをするのであります。

 

 これを神様は、ほしい、おしい、かわいい、にくい、うらみ、はらだち、こうまん、よく、という八つに分けてお説き下されたのである。そして我々人間はこの八つの埃を積むのである。それゆえこの八つの埃が積り重なったあげくは、様々の因縁災いとなって表れて来るのであるから、銘々はこの八つの埃を払うてしまって誠の心に立ち返れば、神は珍しい助けをしてやろう、その珍しい助けとは何かといえば、人間百十五歳が神の定めた定命であって、それから後は心次第で生き延びさし、尚進んでは、「病まず死なずに弱りなき様」の珍しい不思議の道をつけてやると仰せ下されたものであります。

 

 それで、このおみちは神様がこの珍しい病まず死なずに弱りの無い結構な道をつけるがためにお啓き下されたのでございますから、皆様も何でもこの神の思召しを充分に会得して、誠一條の精神を以ってこの目的に向って御守護を頂くように日々心掛けて通らして頂かねばならんのであります。

 

 誠の行いをして通れば神様は決して我々に不自由をお与えになるという事はありません。それを御教祖様が、十二の干支に例えてお教え下された事があります。世間で家の隆盛に趣くという事を「あの家は今右廻りだ」と申します。即ち、子より数えて右へ廻るのが正、左廻りは退廃即ち悪でありのであります。これを図で示して見ますれば、次の様であります。

 

右廻りは 

 

根 失うても 取らん 運はひらいて 立ってくる 身 生れる 失念せ さるな 取らんでも いんで いる 

 

左廻りは 

 

根 いんで いて 取ら ざるも 失念す 生れても 身は 立たん 運はひらいて 取っても 失う。

 

即ち正=右廻りをすれば根を失うても取らず負けて通っても天然自然に運は開いて立って来て、身生れるから失念する事はない、取らずに損をしていてもその理は自然にいんで(帰って)いるという意味でありまして、又これが反=左廻りをすれば根がいんで(帰って)いて取らざるも失念する。生れても身は立たず運が啓いて取ったつもりでもそれは失うてしますのだという意味なのでございます。ゆえに、我々はどうしても誠の精神を以って通らねばなりません。すれば自然、理は以上のような右廻りをし、もし悪い心を以って通れば理は左廻りをするのであります。

 

神様は、お神楽歌の中に、

三に さんざいこころをさだめ

と仰せ下されてあります。さんざいこころを定めとは三歳心を定めという事でありまして、三つ子の様な欲のない清浄潔白な心を以って通れよと仰せ下されるのであります。清浄潔白な心は即ち誠の心でありまして、誠の心を以って人を助ければその報いは、シキイの下から戻ってくるのである、即ち、シキイとは四季の事であり、また四木に通じる、即ち、

一、朝置き。

二、正直。

三、働き。

四、家内睦まじき。

の「四き」であります。

 

 お授けは、末代のお授けでありますからその精神もまた末代変らぬ精神でなければなりません。即ち、お授け頂戴したその日の心を一生涯変らぬ様にしなければ、折角頂いたお授けも何にもならず、心変ると共に何時かしらそのお授けを落としたり失ったりしてしまうのであります。お授けは一生涯末代唯一度のお授けであるのであるから十分心に理を定めて頂かねばならんのであります。

 

 そしてそれを頂戴したならば充分に使わして貰わねばなりません。折角結構な理を頂いても使わねば、立派な刀を棚の中へしまい込んで置く様なものでありまして、錆がついて切れぬようになってしまうのと同じ事で、いざという時に神様の御守護を頂戴する事は出来ないので御座います。

 

 日々に誠を以って勤めさして頂き尽くし運びをさして頂いたならば、その理は何時か神様が返して下さるのであるから、どんな所も迷わず疑わず喜び勇んで誠の尽くし運びをさして頂かねばなりません。御教祖様は万人助けたいがため、我が家や我が財産を悉く投げ出して、夫や親類の反対をも顧みず誠の務めをつくして下されたがゆえに、今日五百万の道の信徒が出来たのであります、それゆえ、我々も誠一つで勤めさしていただけば、銘々の身体は平常も壮健に、家内中は皆睦まじく面白可笑しくこの世を送らして頂く事が出来るのでございます。

 

 誠の道は一分の損もない、尽くしたら尽くしただけ、運んだら運んだだけ、それだけそれを一粒万倍にして神様はお返し下さる、皆我が身に返るのやと仰せ下されます「ほんまのそんどの仕損というのはわし一人や。」と教祖様は仰せになりました。実際御教祖様こそ五十年の間様々の苦労艱難な道をお通り下されて、御生前中唯の一日も今日はという楽しみをも見ずに御昇天下されたのでありまして、そのお蔭で我々は今日こうして結構な道につかして頂く事が出来たのであります。

 

 それでどうでもこうでもこの御教祖様の御恩に対しても、また天の親神様の御慈悲に対しても我々は誠一條の大道を通らしていただかねばならんのでございます。まして、お授け人は神の名代、御教祖様の名代であるから、口と心と行いの三つを揃わして、人から「ああ成程の人や」といわれる様、世の手本雛形となって通らして貰わねばならん事だと思うのでございます。