先々の信者から、米を箱等に一ぱい入れて、教祖に御供さん(只今の御供さん)を願いに来る。教祖は、その中に御米を、三粒御取りなり、御自分の舌の先へ、イョイ/\/\と三べん、おつけになりまして、そばにお付きの人(大抵は中田、高井)に「口をかして」とおっしゃり、その三粒の米を、こちらの口へ入れて下さる。そして「さあ」とおっさって御下附下るのである。それが御供さんと成るのである。
教祖は、台所(炊事場)へ、お出ましなされようとせられると、直ちに、月日様から、耳うつし(月日親神様より、教祖は、耳へきこえてくる)があって、「行くのやない」と仰せられ、お止めなされた。これは、見れば「月日のやしろ」に「ほこり」がたまる、と仰せられたのである。
教祖が、晩年、耳がとおかった(耳が少しく、きこえにくい)、これも聞けば、ほこりが月日の社にたまる。と仰せられた。月日の社はけがしてはならん、きれいな、大きな仕事をせなければならんから、それに「ほこり」がたまって、げがしてはならん、と仰せられたのである。
総て、上たる人には、よいことを聞いてもらわにゃならん、わし等かて、そうや、心に何か、かかってあったら、教理が、やさしく、やわらかに、すっと出ないがな、ごつごつして来るがな、だれでも一緒や。お道の者は、ほこりなこと、言うたり、見せたりするのは、いかんのや。天の理に添わんのや、親不孝や。
御教祖様が、御食事せられている時等、よく用事があって、お伺い申し上げると、御教祖はやさしく、御用の「おさしづ」を下され、「カボチャ」等、お上がりなれていると、一寸お上がりなって、「さあ、これあげよう」とおっしゃって、そのまま下さった。
こちらが遠慮しようものなら「きたないかえ」とおしゃって、下さらん。今後その人が何べん、同じ時に参りましても、決して、下さらなかった。
「きたない」と思うのは、とりちがいや、親様の心知らんのや。人間の親が、我が子供に、物をやるようなもんや。親様は、世界中皆吾子、と思うておいでや。やりとうて、やりとうて、仕方がない、やるものが無かったら、指でも、ねぶらしたい、とおっしゃった。われ/\は、そんな心にはなれんわなあ。
御教祖様が、ある時、わし(高井)に「今晩おいでや」とおっしゃった。
昼から、なるべく行けるように、用事を早くからかたずけておいたのや。
真柱さん(前管長)から、ちょうどその晩、丹波市へ行く用事を云いつけられて、行くことできなんだ。翌朝「おわび」に行ったのや。「神様から先にきかしてもうろた」とおっしゃって、ニコニコ笑うてござった。御教祖様には、何でも月日様か「耳うつし」があるから、先に知っておいでや
四季の事を聞かしもらおうと思うて、時計を枕まもとへ置いて、一寸休ましてもらった。そしたら朝まで、寝てしもうた。
大事な事を、教祖様に、お尋ねさしてもらうのは、夜の十二時頃や。何時でも云うて下さるのとは、違う。
こちらから心まちがうか、何でもないように思うたら、だまってござるがな。一寸の話きかしてもらうのも、なかなか苦労したで。そうやから、聞かしてもうらうのに、しょうね(一心のこと)が入ったる。そうやから、一ぺん聞かしてもろうたら、めったに忘れやせん。今している話は、六十年も前に、きかしてもろうた話や。それでも、一寸もちがわん、忘れておらん。
それから、翌晩は、よいから、おきていて、夜の十二時に、御教祖様のところへ、やらしてもろうたら、親様が、台の上へ、ちゃんと座っていた下された。
こちらから、こうしてもらおう、と思うたら、先に月日様から、耳うつしがあるから、何でも先に知ってござる。
六人(六台の神様)が揃うて
こうしては(春)じめたらな(夏)
あ(秋)っち こっち
ふ(冬)いちゅう まわしたら
ふいちゅう まわしたら(拡めること)
一晩は、ねてしまい、一晩は、ねらねなんだ。きかしてもろうたとて、わけがわからん。何んで四季になるのか、一晩考えたがな、またお尋ねして、きかしてもろうたのや。
明治十二年頃は、半期に手紙三筋と金が十銭より頂くことできん(部下ら)。
河内からでも、大勢人は来たけども、皆帰った。お屋敷は結構やけれども、これでは女房子、養うことできん。と云うて、わし(高井)は女房子は無いで、お屋敷で食べさしてもろうから、それでよいものの、煙草呑むこともできん、半期借っておいて、御本部さん(その当時は伊蔵さん)に、煙草銭借りてあるので、どうしたらよからう、と相談したら、そんな位は、わしは立て替えてやる、と云うて来られて、かしてくれた。河内へ帰って、もうけて、すぐかやしたが、そんなやから、だれもつづきはせん。こんな中、辛抱して通らしてもらうのが、本当の苦労や。
教祖様がなあ、「こんな処を、十年と二十年と辛抱しいや、十年と二十年と辛抱したら、どこそこの屋敷と囲いして、住むようになるのやで。辛抱しいや、御苦労やなあ」教祖にしてみたら、ちょうど吾が子に、苦労さすようなお心持ちやなあ、銅身へ、しゅんだで。(涙を流す)
御本席様でもそうや、明治十四年に入り込みなられてから、家族は皆お屋敷で、食べしてもらえるが、子供の小遣いがない。それで「よなべ」に御社をこしらえて、それを売って小遣いを、こしらえはった。
御教祖様は「しまいは、金は、ほうけではき寄せる位、集まって来る。外国から、わし一人でもかんな位はさしてもらうと云うて来る。金などは、なんとも思うのやないで、いまの苦労を、たのしんで通りや」とおっしゃった。ぼちぼちそうなって来るがな。
それでも、どんな時もある。わしかて、ほんの最初は、明治十二年のかかりやったと思う。まだ、御教祖様から口さとして(先の金のおこしよう)してもらわん先や。丹波市へ使いに行くと、丹波市の奴等は「あいつのしりに、大きな尾がはえてあるそう」皆笑いよった。あほらしいて/\、ええ、いんでこませ(河内)。河内へ帰れば、大きな顔して歩けると思うて、二階堂まで行くと、足がピタリと止まって、歩けん。後へ帰ればサッサッサ歩ける。いのうと思うたけど、いぬこと出来ん。
またお屋敷へ帰らせいてもろうた。
今度教祖に会うと、ちゃんと知ってござった。皆、月日様から、耳うつしあるから、何でも、こちら申し上げん先に知ってござる。
そのくらい鮮やかに、何もかも、お知らせ下さる。人間思案出したり、おれがという、我を出しら、駄目や。
それでも、中には、うたごうたり、我を出したりして、沢山に通りぞこねている。
何かたずねに来ると「市兵エと云う名代は、ここに居る」と云うて、辻さんや中田さんを下において、自分が先に、そんな事言うた。その時御教祖様は「市兵エさん、しっかりしいや/\/\」何べんも、肩をたたいておっしゃった。
御教祖は「そんな心では、いかんから、しっかりせよ」とおっしゃる。
それをまだ「しっかりせよ」と云うてもろうた、ほめてもろうたように思うている。
さとりちがいやなあ、まもなく出直したがなあ。「が」を出したら、いかんなあ。人間思案は「我」や。神様に、もたれにゃ、何も出来んで。
神がこうして表へ現れたからには、どうでも、こうでも、この道はつけきる。親が我が子の始末しかねない。聞かねば、聞かんようの始末を取る。
三年つとめても、神の受け取る日一日もなかった。一間四方の勤め場所、誰も引き受ける者なかった。それを席が引き受けた。その理ほっておけようか。
祖父(猶吉)、十二年まで(十九歳)半年河内。十三年より、べったり本部に勤められる。
父の母に、教祖がおっしゃる。
素直は、正直やで、素直な道具は、使いよい。素直は、神も好けば、人も好く。
心受け取って、心通りの与えを渡す。
明治十五年と思う。御新造様が(松枝様)、御身上、御教祖様が、奈良の監獄へ御苦労、わし(高井)は、三昧田へ御新造様の薬取りに行く、そこへ神道本局から、古川強正(本局幹事)が来ると云うので、準備せにゃならん。とてもえらい事やった。それから、真柱様(前管長)の御命で、三昧田から帰って、市川(ほうけいじ)へ教正の座られれう座布団を借りに行った。市川では、その時分お殿さん(高取)がよくお出になるので、畳半枚ほどの台をこしらえて、その上へ座布団を敷く、それを、ちゃんとこしらえてあった。そのまま借りて来る。ところが直ぐに来なかった。
御教祖様がお帰り遊ばして、やっとしてから、古川教正と内海教正(本局理事)、小島教正(三輪大神教会長)と三人やって来た。
その時、御教祖がお会い下されて「泥海古記」を一寸と説き下された。
国常立命様は、こう、面足命様は、こう、いうふうに、処々をかいつまんでおっしゃった。そして親様がおっしゃるには、
「学者ならば、世界でこの人一人、神官ならば、この人一人、何もかも世界で一人よりない、と云う学者が出て来たら、何もかも詳しく、立板に水を流すように許す」とおっしゃった。
すると小島教正は、
「そんなら、一ペン神様下がってもらおうかい」
といいました。
古川教正は「そんなもんやない」と云うた。やはり本局幹事等するもんは「普通のいなりさげ等とは違うと、一寸見たらやはり小島さんは、そこまで分からんよって、そんな事云うたのや。
父の話(父の意見)
世界一の学者、知者、もう一人外にない、と云う人になれば、何もかも分かる。今の世の中であれば、今だけ分っても、昔の事は分らん。それで「元始まり」の話をすれば、木に例えたら、根と先とを合すようなものや、合いそうな筈がない。
真中を切りはなしてあるようなもの。世界一の人になれば、「元始まり」の話をすれば、その真中もよく分かるから、御教祖様のおっしゃる事は、すぐに悟る事が出来る。それで、そうおっしゃった。
それで分からん人に、なんぼ話しても分からん。わし(高井)でもやはりこの人なら、このくらい、この人ならだいぶ分かるから、少し詳しくというふうに、色々に説かしてもろうてある。また余り詳しくほどくと、日本の古事記と違う処が、出来て来る。
古事記は、大和の稗田阿礼の覚えていただけ、書き取ったのや。それ以前に書いたものがあったのでやろうけれども、焼けしてしもうたのやろう。そうやら、元始まりの深い理の話と、合わん処出来て来るの、当然の事や。
また何もかも、一緒に詳しく話したら、ごちゃ/\になって、分からんようになる。それで、元始まりから、今日まで、ずーッと一通り話して(いわゆる筋を通して本筋の道)、それから、
一、 月日様の思惑は、どう
二、 道具を寄せる時は、どう、
三、 この世の初まりの話を、どう
四、 人間仕事の仕込み、文字仕込みは、どう、
と区域を立てて、詳しく話すとよい。本部でもそれはそれとして、参考に書いて残したらよい。そうでないと、後になったら、分からん事が、沢山出来て来る。
元始まりの話は、人間の造った話は、一ツもない。わし(高井)の話さしてもらうのも、わしの考えは一ツもない。
御教祖様に聞かしてもろうた事、そのままや、われわれ人間がどうして考えて、話出来るものか。この間管長様から、見せて下さった古記やなあ、少し違う処あるからなあ。
(相違の点、次の如し)
一、 人間再最初の三ぺんの生まれ変わりは三ぺんとも同じや。二回目から、十ヶ月胎内宿った。そんな事はない。最初の三ペンは、世界中の人間は一ペンに宿って、一ペンに出直している。それから八千八度の鳥畜類の道を通って最後に猿が一匹残った。それが国狭土の命様や。その胎内へ五組宿った(男五人女五人)。猿は五組産んで出直した。それが、今の伊勢の猿田彦の明神、国狭土の命の出直した場所。その猿の胎内へ宿った時から、十ヶ月と定まる。五組から五組宿り、産まれ、水中住居となる。元宿仕込みの人数揃うまでは、何億何万とかかっている。出直したり、生まれたり、なかなか一寸にはいかなんだ。人数揃うとところで、水陸もちゃんと分れ、親神から、云ひ聞かされた。五尺の身体にもなり、陸に上がったのである。それから六千年は、仕事の仕込み、外国人が多いから、文字の仕込みは、六千年かかった。とおっしゃる。
岐様美様の御二人だけでは、先きのたのしみを云いきかせて、得心さした。
後の道具衆は、承知差したのと違う。そんな「かれ」や「ふぐ」や「うなぎ」等、得心さすも、さぬもあるものか、直ちに食うて貰うて、その心味いを見て、道具にお使いに成ったのや。
最初この元始まりのお話をさして貰うた時は、聞いた人は、色々と云よったで、色々な理屈を云いよった。泥海の中に、伊賀も、河内も、大和もあったのかいな。
五分々々と成人したさしが、あったのかいなあ。それはそれはいろいろに云いよった。
泥海の中には、大和も、伊賀もない。また物の長さもない。
月日様は、胸の中にお定めに成ったのや、これはこう、あゝなれば、あゝと、今日の成人までの事を、胸の中にちゃんと定められた。
それで人間の成人に応じて、天地を分け、三尺に成って、月日輝き初め、五尺の身体になって、陸へ上がり、そけから、最初おもわくをつけて、定めた通りに、何から何まで、教え込んで下された。
丁度人間の親が、我が子を仕込むのも、同じことや。
左で箸もてば、ドッコイ、それは右で持つのや。食う事から、着る事から、万ず仕込みと同じや。また仕事を仕込んで、今度廻ってきたらまた忘れている。また教える。また忘れる。それではいけな云うので、文字を仕込んで下さた。今日までは、如何なる道も、苦労も有ったが、それぞれの道具衆の魂を、人間姿現して、通り抜けたので有る、と仰っしゃる。
それで道具衆の魂も、時代に応じて、何篇もこの世に現れ、守護して下さる。その働きに依って、神名がついて有る。それは人間も同じことで、呉服を商うて居れば、呉服屋、風呂屋をすれば風呂屋、その働きに依って呼び名がかわって来るとの同じで有る。
古記ばばし、を仏教に合して説いた等云う人あるが、何も仏教に合わしたのやない。道具衆の魂が人間に現して世界の子供に、仕事や、文字を仕込んで下されたことを、御教祖が吾々に分りよい様に、教え下されのたのや。証拠を示してお話下されので有る。聞かし貰わね、何も分からん。人間で考えて云えそうな事はない。中には、つまらんことを云うた人も有る。それでいろ/\に間違って居る。
国常立命(北)
イ 千寿
根は千寿。一番最初に現れた故に、千寿と云う。
ロ 国床を、かためたから国常立命。
ハ 国を見定めた、ここからここまでは大和、ここからここまでは伊賀、河内と、故に国見定めの命という。
二 多くの人数を突いて、宿し込んだ故に、おつき(御月)とも云う。
面足命(南)
勢至ト云う。
地は面足命 三尊の弥陀ト云う。
三づのみだ
1 大きく見える堅い心を、観音。
2 澄み切った心は、勢至。
3 助けたいとの心は、弥陀。
天は国常立命
「しゃばふたけ」とも「しゃん、しゃか」とも云う。
附言
この言葉を間違うて、おしゃか様が、月様が現れた等云うのである。月日様は、人間姿には現われておらない。
日々に理を(廻す)どちらか分からん故に「日輪」。
それだけの人数(九億九万九千九百九十九人)が宿れば、重くなるから「面足」
という。
伊弉諾命
顔は人間の顔、はだ合は「はも」が「太刀魚」の如き、つる/\した、はだ合。いざ/\のない岐である故に「いざなぎ」と神名をつける。
伊弉冊命
顔は人間の顔、はだ合は岐様と同じ、いざ/\のない「巳」故「いざなみ」と名附く。
月読命 西北 いぬい
いぬい 八幡という。
蜂が八幡よったら、恐ろしく突くやろう。恐ろしく突いて/\突きまくった。
「なむ」と一度に男一人女一人ずて宿し、三日三夜に、九億九万九千九百九十九人と云う人数を宿し込んだ。
聖徳太子
大工「建築」木、木または竹等の細工を教えて下される。
国狭土命 辰巳 東南
国の土の色と同じ色、故に国狭土命と云う。
善賢菩薩
王子のだるま
切れない方の金物細工を教える。鉄瓶や鍋釜等。
雲読命 東 卯之方
文珠
薬師、水神のかみ
竜王(百姓の仕事を教える)
神農(医者、薬を教える)
惶根命 ひつじさる 西
大日如来 法然上人
円光大師、円光大師は京都の葛原で「五重」を渡す。
教祖は真葛ヶ原は、御地場にある、とおっしゃった。
附言 天の岩戸、おぢば、しるしに石を伏せてある。
大戸辺命 西
不動
弘法大師
大食天命 丑寅 東北
鬼子母神と現れ
切れる方の刃物一切を教う。
虚空蔵 嬬來
橋姫 うじの県
奈良二月堂 生駒聖天さん
これは皆道具衆の方々が、人間姿現して、それ/\゛に仕込んで下された。
ほんの一寸話して下れただけである。
まだまだ沢山有る。
外国に仕込みも同じであるが、わしらに話して下された処で分らんから、仰しゃて下されなんだんや。
仏教に合して説いて下されたもの、何んでもない。仕込みの御苦労を、お知らせ下されたのである。
甘露台のお勤めは、理は重い。甘露台によって、世界治まる、と仰しゃる。あるか、ないか、そんな事は我々人間には、分からんが、教祖様は、次の様な事を仰ゃった。
「天に昇ろうか、地へくぐろか、その時は、目(太陽の光)のさし手(さして来る方向)を見よ。甘露台の勤一条により治まる道はない」と仰しゃった。
これからはどんな事も、甘露台の勤めによって、たすけて貰えるのや。また世界の総てを守って下さるのや。
そんだけ、お勤に出さして貰う者も、気をつけにゃいかん。
御教祖様は「一手間違うても、神の受け取りない」と仰しゃった。また「命にかかわる」とも仰しゃった。命にかかわると云うのは、大事な時のお勤やろな、食物のつとめの時など仰しゃった。命にかかわると云うのは、大事な時のお勤めやろうな、食物のつとめの時の事など仰しゃっるのやろ。
どんな時でもこの心ががけで、勤めさして貰わにゃいかん。
甘露台のお勤めは、元始まりの理を現したお勤めや。
月読命 いぬい
背に負うているのは、男の一の道具。
「てんりおうの命」手をうしろへやって、前へ出すのは、背負って居る「しゃち」をつかんで、前へ出す手。
国狭土命 これは(月読命道具)を受ける手
惶根命、大戸辺命、国狭土命の三柱は、日様の尾を持つ。
尾を持つのは
イ、一手一つに結び合うた理。
ロ、親に素直に、従いまた親にすがり理
岐様と美様とは、人間宿し込みの理を、かたどるのである。
おぢばの外に、三十一ヶ所の「打ち分け場所」と別に、「参り所」出来ると、御教祖が仰しゃった。
三十一ケ所の打ち分け場所
これは以前に書き、現に提出す。参り所
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