本部員別席講話 理の御話 第一

   人間というものは、この世一代の思案をしてはどうもならん。それ故にこの世にて、わしはこれ程日々信心しているのに、今日の日は何たるしたる日や知らん、何の因果や知らんと言うて不足を言うなれば、この世一代のことは僅かや。神のお心は助けたいが一條、それに難儀すると云う事は前世長い道中みちすがらに心にして来たる事が皆身について来る。心で思う事して来た事は我身にかかる。しるしある故にしるし表れる。

 

    皆我が心に覚えある事が身にあらわれるなり。その事を知らぬ故何でやいなあと言うのや。神様は真実の親様ゆえ、どんな者でも皆可愛いの御心、まして神様は人間せめなさると言う事はない。なれども人間というものは我が心から我が勝手に難儀不自由する種を蒔いて置いたる事が一軒限り一人限り皆現れるなり。この世に火難水難憂い災難病気難みな自分の心からや。

 

 身は神の貸物借物、心一つは我もの、心というものは生涯生き通しのもの、身は古い着物を脱いで、新しき着物を着換える如くやで。世界は今の親が子となり、子が親となりて、互いに世話の仕合をしているのや。今、子であっても後は親となりして、生まれ変わり死に変わり生まれかえりして心通りの暮らしをしているのや。

 

 この世に親という理はめん/\の親二人よりほかにあるまい。その親のそばを離れてどこで我が身が育つだろうか、親という理がもう一人ほかにあろうまいがな。皆々聞いておけ。神様の話というものは見えぬ先に言うのは神の話や。親の話や。この話の理を忘れんよう。神の話というものは、聞かして後で皆々寄り合って、難儀する様な事を教えんで、言わんでな。五十三年以前から、何にも知らんものばかり寄せて神の話を説いて聞かして、理を諭して段々来たる道。元一つの理を忘れん様。その所でだん/\成立ち来たる道。

 

 心うっとしいては、どうもならん、うっとうしい日には何をすれども速やかなる事出来ん。晴天の日の心を以って何事すれば、晴天というものは何をすれども速やか出来るものである。世界中曇りなければ気も晴れる。速やかなものである。日々、晴天の日の心で暮らせば何をすれど速やかである。

 人間の誠の心の理が人の身を助けるのやで。人の誠の心の理で人を助けるので我が身が助かるのやで。皆銘々心からこの理を聞いて我が身も助かるのやで。

 

 この世に神や仏やと云うたとて、わしが神やと云うて居る神がない。木佛、金佛、石佛、御幣は皆人間の拵えたもの。人間は神の子や、神の御使い下さる道具。身の内は神の貸物や、借り物や。人間にまされた神はない。心一つが我のもの、その心一つにて日々常々に互い立合い助合いの誠の心の理が一人の神と云うのや。心一つの理というは、どんな理いくえの理もある。心通り皆表れる。世界にうつる鏡、へだてないのが神の心。へだてる隔てられるは皆めん/\の心から。皆心通りが身に表れ家に表れてあるのや。

 

 世界にはどんなものもある。難儀中の難儀、不自由中の不自由、食うに食われず着るに着られず、まだその上に身の内一重うちらが自由用叶わずして、一代泣いて暮して居る者もある。これもめん/\の心からや。神のためには皆可愛い子供や。皆兄弟や故誰のつらいのも皆同じ事やその所で世界を見て、あの身この身という難儀を見て、日々たんのうして暮すが陽気づとめ、人の事ではない、皆我が事や。

 

    前世因縁の理を聞き分けたら皆蒔いたる種や。その理分りたら何程信心しても不足と言う事はない。不足を言うと足納が出来ん故に案じるから不足にあたる。不足は不足の心に理が廻ってならん。あんじる、あんじの理が廻る。家内中互に不足の言い合いして暮す故に、内々不足が表われる。因縁一つの理を聞き分けて世界を見てたんのうして暮すで、一時前世のさんげになるとおっしゃる。

 

 神一條の道というものは一っとき一度になるやない。日々月々年々長らえて長らく続く天然自然の道である。天然の道にはどんな日もある。どんな月もある。どんな年もある。どんな道も通るのでどんな理も分る。そこで今不自由の道を通れば心に油断というものはない故に段々充分固くなる。今固い充分、おおかんの道を通れば油断が出来て末で難儀不自由する。

 

    人間は我が思うた通り万事ならせんが理、なんで成らん、身は神の貸物故我が身の思う通りなるならば可愛い子置いて死ぬ者も親が患って子に難儀さすものも無い。なれどもままにならん。我が身がままにならん位故万事ままになりそうな事はない。故に神の話を聞いて人の不足を言わんよう、我がの不足を言わんよう、案じ心を持たんよう、日々たんのうして暮すようにするのは第一の信心。

 

 神の話といえば見えん先に聞かして置くのが神の話や。親の話や。この話の理をよう聞分けて、親は難儀せん様子にかかりては、いつも可愛い助けたい一條の御心、その可愛いにあまりて行先難儀不自由せんよう、善悪二つの道を世界にうつる天の鏡の理で御諭し下されるのや。

 

 神の話聞いて思案すれば前世持ち越しのない者は無い。前世、心でして来た事は皆身についてある。しるしある事皆身にかかる。道が道なら通らにゃならん、通さにゃならん、通って置かねばならん、通して置かねばならん。前世の道はどんな道でも通るので先にたのしみの道があるのや。の理を聞分け日々信心しているのに、なんで難儀のかかり来るのは、大難は小難で通さして下さると喜んで愛想つかさず付いて来ねばならん。

 

しるしあれば、どうでも通らんならんゆえ、早く話を聞分けて、前世は皆どんな事してるやら分らん故表われて来ん先に早く日々月々年々に心つくして、世界のため道のため人のためいっぱいつくすが我が身のためになり、我が罪がほろびて末楽しみとなるなり。

 

 信心というは日々の心の勤めを言う。拝む事にあらず。心の勤めというは身の勤めその勤めは日々家業大事道正直が一の勤め、内々睦まじく互い互いの孝心の理が第一。二つ一つの理をめん/\が心の理に治めて、何時/\までも変らんよう。世界から見て感心、聞いて感心する様に運ぶが第一の信心という。この世の元々真実の両親は天の月日様なり。世界中の人間は皆親の子、一列は皆兄弟なり。身の内は神の貸物、心で日々思うだけの理が我が物であるから、皆々互いに、しんの心から誠をつくして親切に助け合いをして暮せば、しんの兄弟というなり。

 

 親は子に掛かったら可愛い、助けたい一條の心がいつも変らん、この心が天の理、真の誠真心ゆえ、一軒限り一人限りこの心あれば内々治まり身も治まりて、い互いに孝心の理で陽気づくめの家業をして日々よろこぶ、その心の理に天の理、親の心が添うて下さるゆえに家業ます/\繁昌するなり。

 同じ親様の身の内に生まれても前世の因縁で善悪ある。山奥の米麦もなく魚類も無く三度米の飯食わずして山かせぎして一代暮して居る国も沢山ある。東京や西京や大阪のような何でも自由用叶う所はない、衣食住の三つの何一つ不自由なく不足言う事もない。それに心からとて食物はない住家もなくぼろぎ着て居る者も皆神の子、皆兄弟。親に隔てなけれども我が心がきたない。ごむさいゆえ。きたない話するのや。

 

 神一條の話は薬味話。助かるも助からんも皆話の理で、聞き様取り様さとり様で心洗うゆえ、話の理をよう聞いて置かねばならん、聞かして置かねばならん、話の理を聞分けて年々つくす、月々つくす、日々つくす理によって前世の大難小難で免れる。行末長くたのしみになるのや。

 

 信心するにも、効かない信心しては何もならん。にして来た事は皆身に表われる効能なき信心する人は兎角理が表われて来れば、なんでや、どういうものや知らんと言うけれど、なんでと言う理はない。この理は神に不足を供えるにあたる。不足に不足の理が廻りて色々の思案をするゆえ、助けたくても助けられぬとおっしゃる。

 

世上世界は、べた一面天の鏡にうつしてある、うつりてある。心通り皆表われてあるのや。神様はどんな心も皆受取りになさる。助けたいは親の心、助かりたい、助けて貰いたいは子の心、助かるが理、助からんと言うは我が心が助からん。生涯末代たましいについた不足の理が身を攻めるのや。我が心日々不足に思うから人の不足を色々と云う。その不足が皆我れにかかって来る。たんのうの理が天の理。日々たんのうして暮せば人の不足は思わん。思わんから云わん。

 

二人よりて両方立つ理は無いで。立つ理は誠、立たぬ理は埃、誠は天の理、天の理は正直真直ぐの心。天の理ならどこまで行ってもこわき危なきはない。又人を助けると言うても誠なければ助からん。誠の心の理が助ける。我が身助かる。人を助けるには我が身に不足言うていて人を助けられるか。助けられん。人の不足言うて居る様では助けられん。

 

 口さきでなんぼ真実言うたとて

 月日言うように せねばいかんで 

 

    人間というものは、着物や身代や人品や学力に惚れ、容色に惚れてどうもならん。人間が口先で真実言えばそれに惚れるけれども、どうもならん。間違うで。神様のお話の理に世界もたれて居れば何にも難儀不自由ない。なんぼむさくるしい風装をしていても、心の誠の理あれば確かなものや。誠ある人は天然自然の理を聞分けて、あわてる事も急く事もない。医者で叶わん、どうしても叶わんと言うて難儀している時、薬味話の理を聞分けて我が身助けて貰う理が分りたら、人を助ける心になれば我が身助かる。

 

     これまでの所互い立て合い助け合いの話の理、これは諭する理、人を助けるには誠の一つの心の理が人を助ける人を助けるので我が身助かる。その助ける理が天の理、その心の理に天の理授け渡す。その授けは子孫末代のたのしみの理。その値に区別ある。心の理によりて区別ある。一日の日に我が生涯の心の理を治むれば我が生涯のたのしみの理が渡すとおっしゃる。

 

今は育てる旬や。育てにゃならん。元の屋敷は鏡屋敷四方正面の心が映りてある。この屋敷で濁った曇った心には天の理をうつさぬで。澄んだ/\水晶のごとくの心には澄んだ/\水晶のごとき親の心を映して、生涯たのしみの天の理授けという渡し物を渡す。人間身の内は神の貸物、心一つが我がの理、心の理というは親にでも夫婦の仲も兄弟も皆めん/\に心違う。

 

   ]神様のお話は一列兄弟とおっしゃる。その兄弟は身が兄弟やない、心と心と互に親切につなぎ合うが兄弟や。神の話をだん/\聞分けて前世の深き深きの理が見分け聞分け出来るようになったなら充分の理治まる。

 

    日々よきつとめというは、夫婦揃うて賑わしく暮す事を言う。世界でたった一人の本席で夜を日につぎ日を夜についでも諭しきれんゆえに取次ぎには大凡の事聞かしてあるゆえ、取次ぎ親の代わりや。ゆえに二度三度本席よりのお諭し下さる事を改めて取次ぎの別席として、取次ぎ三名四名より別席をして、三名談じ談じてその上で御本席へ通すそこで存命中の親様よりお授けをお渡し下さるのや。

 

 世界中一列は親のためには皆可愛い子供、その中には一度聞いて分る者と三四度聞いて分る者と何遍聞いても分らん者もある。又、三十日で分る者も百日で分る者も一年二年かかる者もある。どんな者でも愛想つかすものやない。同じ取次ぎ、親の代りや。親なれば腹立てさせてはならん。立ててならん。どんな者でも育てたら育つ。世話したら効能ある。肥おけばきく育てるが第一や。

 

 神一條の道というものはむつかしい事はこれ言わん。大層大儀せいとも言わん。又口で言えん事ゆえ身で出来ん事せいと言うのやない。話。言葉の理を聞いて胸に理を治め思案せんならん。人間身の内と言うは神の貸物借物や。心一つが我がの理。心で思うだけが我がの理ゆえ助けて貰うと思うは違う。我れ一つ助かるも心が助かる。助からんも心が助からん。人間心の気随かんしゃく、かんてき、この心がのかぬ。ゆえ助からん。今まで知らん間は世界は幾重の理がある。どんな理も受取る。その中に助かる理というは常々通る誠一つの理が助かる。誠は自由自在ゆえ直ぐ受取り直ぐとお返し下さる。

 人間の正直の理が人の身を助ける。人を助けるには真の誠という心なくば助からん助けられん。互い助け合いの理は、これは諭す理や。何程さとしても諭しの理を聞分けても、誠という心なくば何にもならん。誠一つは天の理。澄んだ/\水晶のごとき親の心が添うので、万事自由自在という。

 

 神一條の道の理を聞分けた最初一日の日の事を思うて思案して見よ。不思議な珍しい話やなと言うてだん/\聞いてなるほどの理が分りたで日々月々に心つくしてこの世の懺悔は充分にしている。その心は充分であるなれども、見るに見られん見せるに見せられん代理がむつかしいのやで。神の話は深き/\前世の事見て、来ぬさきの事をお知らせ下さる。

 

この理が心に治まれば後へ自由用自在の理が分るゆえ、世界の理を聞分け見分けて、たんのうしてもう一段一段心を改めかえて国の為や道の為や人の為に尽力したら、その心に天の理が添うて下さるゆえに世界なるほどの人という。それが国々所々のひながた、鏡手本となるのや

 

 この話の理をよう聞分け。お地場/\親のそば/\と言うて寄り来る一列子供、可愛い一條、助けたい一條の二人の親の心がどこに隔て無いのが四方正面という。その親の心に善悪皆映えるで鏡屋敷という。どんな心も皆映りてある。うつしてある。そこで心通り皆表われる。しるしあるのがしるしある。心にかかる事は身にかかる。身がもめる、身がもめるから家がもめる。身が速やかならんから家がすみやかならんのに、たんのうせいと言うても出来ん。なれど蒔いたる理が表われたる事を聞分けたら、世界の理を見てたんのう出来る。

 

 世界というものは日々かわる。月々かわる。年々かわるが世界の理。誠一つわ天の理天の理はいつも変らん。いつも変らんのが誠。誠というものは柔らかなものや。末で堅く長く続く。それゆえに神の話も柔らかに理を諭してそれが堅くなるのや。

 

 人間は我が身我が物やと思うて居る。よう思案して見よ。我が身体が我が心で思う通りままにならんで。何でならん、神から借りて居るからだや。その身体が我が心で思う通りままになるならば、我が子難儀苦労さす親はあらしよまい。可愛い子を置いて死んでしまう親はあらせんで。

 

 我が心で思う通り我が身がままになるならば、あんじという心あらしようまいが、ままにならんから案じる。あんじれば案じの理が廻る。案じるから不足いう。人の不足いうのが皆我が身にかえるのやで。我が心で思う通りなるならば難儀不自由するものはない。我が思う通りままにならん、何故ならん、めん/\の心に誠なきゆえ、話の理を聞分けて心に誠という理が治まれば、内々睦まじいという理が治まるから世界なるほどと言う。それ自由用自在。

 

 鏡屋敷の理をよう聞分け。世界の善悪ともに皆うつりてある。親の心には何知らんという事は無い、胸の中皆うつりてある映りてあるなれど、どんな事もそらいかんそれはいかんと言わぬ、言えん言わんの理をよう聞分けて。我が子可愛いにあまりて言えん、そこで神一條の道を一段下りてこの世の親々の理によりて諭す。この世に親という理がほかにもう一人あろうまいがな、その親が我が子を改めるという事は世界にない。

 

    その親の心にはこの胸の内うつりてある、どんな事も皆知れてある。なれど可愛いにあまりて、えん悪いは言えん。言えんから言わん。そこで神の話というは世界の善と悪との理をさとす。善悪さとす理を聞分けて、思案して心定めてくれ。

 

 親の心というものは子供可愛いがこれが一條。その可愛い子供を育てる親の心が誠真心、その親は四方正面可愛い一條のこの心。どこに隔てはない。皆可愛い子供の心が親の目に皆映る。映るからどんな事も皆知れてある。それを親が言えんから言わん。可愛いにあまりて我が子の不足は言えん。

 はや/\と子供の出世まちかねる

 親の心はいかばかりなる。

 

 神一條の道の元々言えば紋型ない所から山家育ちの女一人の心を神が受取りて、月日の心天降り、何にも分らぬものを皆寄せて神の話を説いて聞かして理をさとしてそれでだん/\成立ち来道は五十年、(教祖立教後五十年前後の当時)お地場に一つの理が天の理、今はこの世の人間の善悪二つの立替え世の立替え心の立替えに天降りなされて、それはこの世の始まりや。

 

  日々常々、神の話をだん/\聞いて理を聞分け、心に善悪二つの理を納めて世上世界眺めて思案してみよ。どんな理も分る。心通り皆一軒限り一人限り現れる。その所で前世この世の理をさとして聞分け出来たら、難儀不自由しているものでも足納の理が分かる。その理が分かったら誠の信心という。

 

 神一條の道は柔から優しいさとしの理。助け一條の道の理を聞分けてみよ。むつかしき事は言わん。どうせいこうせいとも言わん。ならん事をせいの、大層大儀せいともこれは一切言わん。人間身の内は神の貸物借物、心一つが我がの物、心というものは生涯生き通りのもの。

 

人間はこの世一代の思案して居るゆえ何にも分らん。神は前世行く先長き楽しみの理を諭し下さるゆえ。諭しの理を聞分けて家内一同心をつくして思案して道の為や人の為や我が身の為を思うて互い互いの助け合いの理、諭し合いの理を聞分けて日々月々年々心つくして運ぶなれば、末長く楽しみの理が治まる。

 

 神一條の道というものは一時になるとは思うなよ。長らえて長く続く天然の道である。その道にはどんな年もどんな月も、どんな日もある。道が道ならどんな日も通らにゃならん、どんな日も通るのでどんな理も分る。どんな理も分るので行く先長く楽しみの理がおさまる。

 

 神一條の道の理を聞分けた最初一日の事を思案して見よ。珍しい話や、不思議な話やと言うたのが始まりや。そこでだん/\話を聞いて十五才より此方のざんげ、埃払うて家内中暮して来た事を思い出して猶一段心改めかえて行く先長くつくせば末で自由用自在という理が心に治まる。

 

 神の話は柔らか優しい諭しの理、その話が末長く堅く続くのや。なんぼ堅い事言うてもつぶれたりこわれたりする様ではどうもならん。堅きものは最初はよいが、末ではつぶれるか壊れるかより仕様がない。元々になおしにくい。柔かいものはどないにでもなる。これは諭しの理や。柔らかなるものがだん/\堅くなるのが天の理ゆえこの話の理を繰り返し/\聞くに従い固く真の理がわかる。

 

 人間の身の内は神の貸物借物、心一つが我がの理、心の理は幾重の理、どんな理もある。神様は心通り、心の理に依って働き下さる。身の内神の自由用自在なる故心通り働きくださる。身上に事情ありて世界の道をたいてい/\つくせども運べども速やかならんと言う所で、神の話を聞分けて心に治むれば、身上すぐと治まる。聞分けたしるしあれば、りやくのしるしある。心にかかれば身にかかる。

 

    心より理を聞分けて日々の心の勤めが身の勤め、神様への勤めづくしや。話を聞分けてその場の胸の発散。心あざやか速やかならば身があざやか速やかと治まる。我が心一つの理によりて自由用自在。なんぼ可愛い子供でも親の意にそむき/\てならん時は可愛いあまりで叱る。この理聞分け出来たら、心一つで身上すぐとお助け下さる。

 

    身の内神の貸物で心だけが我が物であるから我が心で思う通りには身はままにならんから、よく思案せにゃならん。万事が心で思う通りにならんから、世界を見てたんのうせにゃならん。なんぼ信心しても案じる心と不足の心とありてはどうもならん。心の案じが身のあんじとなる、心の不足が身の不足となる。心に思う事がどんな事でも皆身にかかる。世界の憂い災難前世にしるしある。しるしある事は皆身にかかり来る。人間は世の世一代の事ばかり言う。

 

    神様は先祖代々伝わる埃までお知らせ下さる。どんな事でも心にして来た事なら皆あらわれて来る。家内に伝わる深き遠き理までも皆表れる。そこで我が知らん事身にかかる。そこでなんでやいなあ、どういうものやいなあというけれど、なんでと言う理はない。なんでは不足に当る。

 

 神一條の話の理を聞分けて、早く世界一つの理を見分け聞分け考える。人の内にも色々の人がある。それを見て思案して見よ。難儀さそうと言う親はなけれども、日々に心にほこりを思うから積りて皆身にかかる。親は助けたい一條の心、子は助けて貰いたい心なれど、助からんというのは此方の心の埃がのかんゆえ、日々月々年々御話を聞いて十五才よりのさんげして、後の心を定めて何にも案じんよう、不足言わん様せんならん。不足言う間はたんのう出来ん。身上に不足なければ十分である。何不足のうても身の自由用叶わなんだら何にも成らん。

 

 この世親々、親の肌生き通りの親、両人の肌離れて子が育とうか。身は神のかりものかしもの、心一つが我がのもの、その心どんな心もある。その内人を助ける心が、まことの心、人を助けたら我が身助かる。助かるも我が心、助からんも我が心次第とおっしゃる。

 

 御一同様がせわしき所もかまわず、日々道の為世界の為を思うて遠方の所いとわず、海を越え山を越えして運んで下さる心は充分に神様は受取り下さる。受取り下さるなれど別席に神の話を聞いておきながら日々暮す月々暮す年々暮す中に誠一つの理を運ばねば、却って神に敵とうているものや。そこで一つの効能の理を貰うには神様に隔てはなけれども、日々月々年々つくす誠の心の理に天の理授け渡し下さるのや故一人限りの誠の理に止まる。

 

 どんな事でも三遍聞いたら理が分る。三遍と言うは充分の理である。充分の上まだ繰り返して三度聞かして六度、まだその上三度聞かして充分の上充分の理を聞かして、そして後渡して下さるのや。又九度も聞かして分らん様では理を渡した所が待ち遂げる事が出来ん。なおして置くようなものや故それではどうもならん。

 

 神様の御心は助けたい可愛い一條の心からして、親が子にあまい一つの理を以ってよく聞分けの出来るように、柔らか優しく間違いのない様に充分に説いて聞かして下さる真実親の心の理というは可愛いが一條、助けたい一條の御心が親はその心、その親の心には十人子がありても可愛いは皆同じ心。それゆえに一列人間はどんな者でも吾が子ゆえ、皆可愛いゆえ、皆助けたいのが一條の御心、それゆえ神様においては金銭ほしいどうしたい、こうしたい、何がほしい、かがほしいと思うて働いて下さるのやないゆえ、隔てなさる心はみじんも無い、少しもへだてないのが神の心や。

 

 親が子供憎いと言う理はない。皆可愛いゆえ同じ理をやりたい。なれど結構な理を渡すと渡されんとはめい/\の心の理にある。心の理というは親子でも夫婦の中でも兄弟でも同じ心は無い。皆一人毎に違うから、神様は心通りの理を渡して下さるゆえ違いがあるのや。同じ心なら隔ては無い。同じ心だけの理を渡し下さるのや。

 

 大恩のある親に心配苦労かける様な心でわ天理に叶わん。親の心に叶わんから人の心にも尚叶わん。なれど親というものは可愛いにあまりて一度意見をしていけねば又一度、三度も四度も意見してそれでいかねば親類にまで頼んで意見をしてもらい、心直せばそれでなんにも思わん。意見するも可愛いゆえ。なんぼ意見してもどうしても聞かん時は仕方なしに放り出してしまう様に、これも可愛いゆえほり出してしまえば心直るかと思うての事。

 

神の御心も同じ御心、可愛いにあまりて御意見色々して下さる。難儀するのは皆我が心から、神様は誰は結構、誰は可愛い憎いの隔てなさらん、なれど皆我が心から、難儀不自由して隔てられんならん様にするのや。

 

 神様に於いてはどうせいこうせいはこれは言わんとおっしゃる。言うに言えんの一つの理を聞分けるなら何かの理もあざやかとなる。身上一つ神の貸物借物の理が分らんから何かの事が分らんゆえ、金銀道具田地田畑皆我が物と思うて思案するゆえ、日々何がほしいかがほしいと言うて勝手の事ばかり思案するゆえに、する事なす事理が変る。

 

 人間もこの世へ生まれて来たる所からいぬる時の事を思案して見よ。何にも持って来たのではない。まるの裸ゆえ帰る時もまるの裸や。生まれて来た御蔭で日々衣食住の三つ叶えて貰うた上、この世の借物を僅かこの息の通ったる間支配さして貰うだけやゆえ、日々衣食住の三つが可成り叶えばそれで我が身は充分たんのうして、悪名を世にのこさぬ様、人のよろこぶ様に支配して、我が身も喜び人も喜ばして暮すが第一や。

 

    なんぼどれ程の物がありても我が日々に用いるだけの物は大凡きまってあるのや。また味のよき物を食べさして貰うと味の悪い物を食べさしてもらうか、よい物を着るか悪い物を着るかの違いやゆえ、日々世界のなんぎを見てたんのうして、我はこれで充分とたんのうして日々長者の内へ生まれさして貰うて居るとたんのうして暮す心が誠の心、この心なれば何にても不足はないゆえ充分神様は受取りて下さる。

 

    日々不足/\で暮すゆえ身に不足が表れて来るのや。神の教えを聞いて日々信心すれば決して難儀する様な事はないのや。けれど人間には今までの持ち越しがある。その持ち越しを信心の徳によりて大難は小難と助けて下さる事が分らんゆえ、これ程信心して居るのに助けに行っているのに、何でやいなあ、何とした事やなと言うて、一寸さわりがつくと案じて伺い/\と言う心が分らん。

 

 人間の身上一切は神の貸物借物、心一つは我がの理、日々の所心一つの理と言うはその時その場の理によって、幾重事情どんな理も湧く、どういう事もある。その湧く心を思案して決して腹立たり妬んだり不足の心を出したりせず、神のお話しの理で心の発散をして、一日の日は朝から晩まで結構々々と思うて暮して、その一日の日の心でまた明日も同じ心、また明日もと三日たっても十日たっても一月たっても一年たっても何年たっても一日の心、生涯変らんのが天の理、日々見る聞く理によって色々の心湧かして、その日その日変る様な心では誠天理とは言えん。

 

 年の始め元日の朝は皆祝うてその日はどんな不足があっても言わん様にして一軒一人限り家内中が皆喜んで暮す。その一日の日の心で三百六十五日暮せば何にも小言なくして神様のお話の理にも叶うのや。けれどたった一日の事で、二三日経つともう何がすまん、かがすまんと言うて親子喧嘩、夫婦喧嘩して不足/\の言合いして暮すゆえ、神のお心に叶わんゆえ皆々神のお話聞いて一日皆聞いた時の心生涯くるわさん様にすれば生涯の理を渡して下さる。

 

    夫婦の中でもその道理で、最初夫婦になりた一日の日の心を生涯くるわさなんだら生涯夫婦喧嘩する事はいらん。何でも皆その通り、商法するでも学問するでも思い立った一日の日の心で生涯くるわさなんだら何でも不足いう事はない。奉公人でもその通り、皆心が変るで皆後に変わりて来るのや。

 

 我々を生みおろして貰うた親の事を思うて思案して見よ。西も東も分らん時からして尿糞の世話をして夜、目も寝ず育てて貰うた親の恩を忘れぬようにして、一人前の人間になったらこの大恩を知りて何でもかでも恩をおくる心あったら、親に心配かける事はない。親の恩をおくる心があれば罪をつくる事はないのや。けれど一人で大きくなった心になるからその恩を何とも思わずして、色々の心得違いをして大恩のある親のおんをよう送らん様な事では神の恩は尚送れん。

 

    又我が親の恩をよう送らん様な者は人を助ける。人を喜ばす様な事も出来そうな事もない。大恩のある親に心配苦労さして置いて助け/\言うているのは欲信心心で、却って神様のお道に害になる。親の恩を送らん様な物は借りた金を返さんと言うているのも同じ事や。一家中幾名何人ありても一名一人の心に誠一つの精神の理があれば内々睦まじいいという充分の理が治まるゆえ、成る程あれでこそ神の道と世界から言う。ああなければいかん、あれがほんまや。

 

 すみきりた晴天のごとくの心やと何所から眺めても少しもさん打たれる様な事無く、少しも濁りないのが誠、四方正面という。この心になれば神が入込んで自由用自在の守護下されて、何時々々までも難儀不自由せずに長命に守って下さる。

 

 心にかかるで身にかかるとおっしゃる。自分の腹の中で心で拵えたる種は皆身に生えて来るゆえ、心で悪い思案すれば悪い事を言う、悪い事をする、善い事も思案すればよい事を思う、善い事をする。この通り皆善し悪しともに皆先で身にかかると言うはこの事を言うのや。ゆえによい事を思案して日々天理という理を心にかけて幾月幾年経っても変らん様にして呉れとおっしゃる。

 

 内々の一つの理を治める事は肝心ゆえ内々互に睦まじいという理を治めてくれ。親子兄弟夫婦ほど親切なものは無い。親切な夫婦親子兄弟の仲が睦まじく暮らせん様な事では他人に睦まじく暮すことは出来んゆえ内々の治め方が肝心や。内々何時も小言ないのが澄みやかというのや。いつもすみやかの心であれば身もすみやか、心に自由用が出来るから身に自由用が出来る。

 

    心が何時もすみやかであったら身が幾年たってもすみやかなものや。どんな仕事をするのも皆心から思う。身上が思うのやない。身に少しも不足はない、心から思う通り身上が素直になる。天より貸物ゆえ自由用自在。心が片意地の心やから身が片意地に思う通りにならん。

 

    心に不足のしるしがあるで身にしるし表れる。心にかかる事がなければ身にかかる事はない、身上は鏡のごとくや、心通りに皆映る。心通り皆表れる。善し悪しともに心にかかる事は身にかかり来る。すみやかな心で世界の谷底を見てたんのうして速やかで暮らせばよいけれど、人間の目の付け所が違うから不足が起る。すんだ心で澄んだ種を蒔いたら十のものなら十ながら生える。

 

    今日によい種を蒔いて明日に生やして貰うという事は出来ん、百姓が今日正味の良い麦種もみ種を蒔いても今日に採れん。修理肥料をして日々心つくして育てたら旬刻限来たら立派な花が咲く、実がのる。その道理、修理肥料が第一や。

 

 親様の様な立派な澄んだ御心でも、四五十年の間艱難苦労して誠の種を蒔いて下されたからこそ、今日の様な結構な芽が生えて来る。親様でも始めから神様/\と人が言うたのやない、世界の人を充分助けて置きなされたで世界から親様/\と言うてなついて来る様になったのや。して見れば我々の様な者でも、神様のような心をつくして通れば皆様が神様/\と言うて下さる様になる。

 

    この屋敷に立派な親様の雛形証拠がある。神様の様な心、身に行い出来たなら、末で親様の様になる。親の足跡よう踏まん様ではどうもならん。誰でも親様のような苦労したならば、ちんばでもおしでも何でも皆なおる。なれど人間は一日位働いたら十年の月給貰う様な心で居るから違う。一朝一夕でのぼる様な心ではころりとひっくり返る。大きい徳を貰いたけりゃそれだけ大きい働きをすれば大きい理を与えて下さる。神様の理を与えて下さるのは心の誠の実を受取って効能与えて下さるのや。

 

 神のお話聞いて一日互い立て合い助け合いをして人の難儀不自由を互いに譲合いをしてやる心ならば神様は喜んで下さるのや。それを金銀蓄えといって譲り合いをせず抱きしめて置いて人の難儀を救うと言う事はなくして、口でばかり誠言うて病気ばかり助けてやる/\と云うけれどそれではいかん。神の受取りがない。神の受取りなさるのは誠一つの心を受取りて下さるのや。

 

    信心して神のお話充分聞分けて天理に叶う心になっても、天から金銀降らして下さる、米降らして下さるという事はないゆえ、互に融通い合いさしてやる。ここらが第一、人間力で助けられる事を助けてやらずして助けが出来んと言うている。兄弟というのは互いに融通合いをしてやるのは真の兄弟、真実誠の心の理が真の兄弟というのや。口で互い一列兄弟/\というて真に兄弟の理がない様な事ではどうもならん。

 

 講元となれば成る様、講中の者を真の我が子のように思うて、どんな者も愛想つかさず可愛がりて立腹ささぬよう満足するように育ててやる様。

 周旋の一人となれば講元の代わりゆえ、講中を共々に大切にして身勝手身びいきせずして育ててやり、皆講中が蔭で不足を言わん様育ててやる様の道をつくして互い立て合い助け合いをしてやる心で、第一自分の内々を充分治めておいて講中を治め、世界から成る程の理を見せねばならん。

 

    講社一般の所を何時/\までも睦まじい様に話す所の理を充分に治めるのは講元の役目、その講元が他の講社を取るとか取らんとか言うて講社どうしが互に仇敵の様になる様な理を治めていてはどうもならん。又互いに内々睦まじいと話ししていながら、夫婦喧嘩したり親子喧嘩したりして内々不足の言い合い、心で泣き暮してすむのすまんのと言うていた分には却って世界の人から笑われる。それでは神様の名を汚すゆえ。神様に敵対して居るようなものゆえ。難儀の修理して居る様なものや。

 

 誠の一つの心で何時/\までも長う/\神様の道に奔走して、一度定めた心は生涯という心を定めて、一日の日の心を変らさんようにする心に天の理授け下されても、変る心は天の理が添うて下さらぬ。神様の事ゆえ一度子に渡したものを返せ戻せのこの理は言わんとおっしゃる。なれど我が心を変えて、返し戻す日は仕様がないとおっしゃるのやからして、良く聞分けねばならぬ。

 

 神様おっしゃるには、神という理はほかにあるのやない、人間の誠の心の理が神やと言うのや。誠の心というものは、一寸には弱いように皆思うとおっしゃる。なれど誠より長き堅きものはない、誠一つは天の理、天の理なら直ぐと受取る、直ぐと返す、自由用自在の理はどこにあるのやない、自分一名一人の精神の理が自由用自在。その誠の心が親の心。神の心は柔かい優しい何時も変らん親切な誠一條の心。その心が神。その誠の心の理が人を助ける。我が身助かる。人を助ける真の誠の心の理が人を助ける。人を助けるので我が身助かるのやとおっしゃる。

 

 天理という一つの理を欠く、理をそむいた事ならば身が自由用叶わん。天理に叶うから身が自由用叶う。神様は無理にどうせい、こうせいとおっしゃるのやない。話しの理を聞分けて後はめい/\の胸次第とおっしゃるゆえ日々天理に叶う様にして多くの人を助けさして貰えば皆我が身助かる事をしているのやほどに。何時/\までも理にそむかんよう理を欠かん様にして暮らす様。神は難儀不自由ささんのや。けれども蒔いたる心の種は皆我が身に生えて来るのや。善悪共に蒔いたる種通りはやにゃならんとおっしゃる。