本部員別席講話 理の御話 第六

 こうして皆様が入り変わり立ち変りお運び下さる別席の理というものは、中々に重い理でありまして神様が人間可愛い御心から席重ねて我々にお聞かせ下されるのでありますから、この三三三という理をよく思案してみなければならんのであります。

 

 月を置いて運ぶのは、その間に家内一族の者の心を造るが為に暇を与えて居て下されてあるのでございます。御席を運ぶのには家内一同同じ心でお授けを頂戴するのでありまして、お授けを頂戴したならばまた同じ心で御道の為に勤めさして頂くという心でなければならんのであります。その人だけが別席を運んでお話を聞かして頂きお授けを頂戴すれば良いというのではありません。

 

 その人だけが精神を定めたなら良いのならば、何もそう度々月を重ねて聞かさないでも一遍か二編かお話を聞かしさえすればいいのでありますが、家内一族の者の心を皆一様に澄まさにゃ頂いたお授けも何にもならぬから、その家内一族の者の心を澄ますにはそう一月や二月で澄むものでもなくまた一遍や二編のお話ではいかぬものであるゆえ、三度三度また三度を重ねた上にもまだ重ねて充分にお聞かせ下され、またその間を九ヶ月という長い間にして貰って居るのであります。

 

 それで皆様も聞いた話は只ここだけと思わず家へ帰ってからも今日はこんなお話があったあんな話であったと一同の者へ伝えてやって、皆々同じ様に別席を運んで居る積りで揃うて心を澄まし、何でも神様のため世のために人を助けさして頂かにゃならんとしっかり精神を定めねばならぬのでございます。

 

 そこでこの人を助けるというのには誠の心にならなければ人を助けるという事は出来ません。誠というのは、その心も行いもどこに一つも違いもないという心と行いの一致したのがこれが誠の心でありまして、口で言うだけでは何にもならんのであります。人という者は口は重宝であるから、どんな事も言えるし又どんな言い回しもつくのであるが、その実際の行いがつかなければどんな立派な事を言うてもその立派な事が何にもならぬのであります。

 

 世間には昔から色々の良い教えや良い事を言うてあります。また学校などでも良い事をせいとは教えて居るが、滅多に悪い事をせよとは教えては居らぬ。また知者や学者の中で良い事を言い立派な事を教えて居る人は数知れぬ位沢山あるのであります。けれども、良い事をしたり又立派な事をする人は余りない。それでは折角口をすくしてまで説いてもその教えは何の値打ちもなくまた立派でもないのであります。お道は六ッヶ敷事は一つも言わぬ。只「かなの道」であって誰にでも分かる様老人が聞いても子供が聞いても分かるように優しい教えをお説き下されたのである。

 

神様のおっしゃるには、

「この道はむつかしい事は一つも言わぬ。柔らか優しい道である。堅いものは若い者は食べられるが老人は食べられん。柔かいものなら老人でも若い者でも食べられる。それでこの道は万人聞いて分かる様、柔らか優しい事を教えるのや、六ッヶしい事は一つも言わぬ。」

とおっしゃった。それで道は柔らか優しくして聞いて出来ぬ事をせいとおっしゃるのやない、誰でも通れる柔らか優しい道をおつけ下されたのでありますから、別席運ぶというのも何も六ッヶ敷事を聞くのでも何でもない、只銘々日々に通るのにその通り、良い人間の道を聞かして頂くのであるから、聞いた話は胸に治め、胸に治めた教理は日々に実行して、口と心と行いの三つがちゃんと揃うて違わぬ様にさえ通ったならば、神様のお心にも叶うしまた誠の人となる事も出来るのであります。お授け書取りの中に、

成る程の人や、成る程の理や

と仰せ下されたのは、この心と行いの一致した人の事でありまして、お話通り日々行って行い正しくしていってこそ始めて人から、「ああ、あの人は成る程の人やな、あれでこそ成る程の理や。」と誉められて、人の手本世の雛形となって行く事が出来るのであります。

 

 自分が悪い事をしておってどんなに人に良い事をせいと教えた所で、その人が聞いてくれるためしはありません。聞いてくれないばかりか、却ってそんな人は道の害になると神様もおっしゃる。それで人を助け救うとするのには、この誠真実の心を以って、先ず我が身から第一に誠の行いをして掛からねば人を助けて通るという事は出来ないのでございます。

 

 銘々の身上は神の貸物借物であるから、我々の命==金を幾つも積んでも買うという事の出来ないその命は神様からこれを頂いて居るのでありますから銘々が勝手に生きて居ると思うのは間違いであります。それでその頂いて居る命を一番効能のあるように使うと思うには、それを我が身のためばかりにのみ使うような事をしては何にもならぬ。

 

 世の中には色々の災難に出合ったり色々の病気に罹ったりした不幸の人が沢山います。そんな人達を、こうして日々に結構に命を貸して頂いて居る我々と較べたならば私共はどんなに結構であるか知れぬ、そこでそういう気の毒な人達を一人でも多く助けさして頂き、一人でも多くこの結構な神の道を知らしめるという様に、世の中の為や人の為にこの身上を使わして頂くという事は、結構な命を貸して頂いて居る神様に対して、一番いい御恩返しとなるのでございます。

 

 けれども、神様は欲しい心のかかった勤めや物はいらぬとおっしゃる。それで布教に出さして頂いて勤めるにしても、心で喜んで勇んで勤めにゃなりません、家族の家で一人布教に出てくれても後に残る家内の者が心澄まねば何にもなりません。今日布教に出なんだら甘い金儲けがあったのに、布教に出たばっかりに何ぼ何ぼの金儲けを見す見す逃がしてしまうて惜しい事をした、何ぞと不足をする様では何にもなりません。

 

 片方で布教に出て徳を積んで居ても家内の者がその尻からそれをぶち壊して行っては何をしに布教に出て居るのか分からないのであります。そんな勤めでは神様もいらぬとおっしゃる。それで家内中は、皆めい/\が布教に出て居るのだと思って、家に居ても出て居る者に家の方へ心を引かさぬ様にして、一手一つの心になって働かして頂けば、神様に受取って頂き我が身の因縁は納消出来て徳を追々と積ましてもらう事が出来るのでございます。

 

 皆めい/\には前世持越しの因縁というものがあって、前世で使った悪い心得違いの理が皆今世に表れて因縁業病となるのであります。それをこの世で果たして銘々が白因縁の身として頂くには、病んで苦しんで居る人や難儀な災難に罹って居る人を救うて通って、それで我が身の前世の懺悔を消さして貰わにゃならんのであります。

 

 それゆえ人を助けて通ったならば丁度自分に付きまどう影のように、それに依って自分の前世の罪業が表れむ先に現れず済み、家内安全に暮らしさして頂く事が出来るのでありますから、布教に出さして頂く時は家内の者も一同心を合わして、家に居る者も共に布教先の病人の全快して下さるよう、助かって下さる様一致してお願いをせねばなりませんさすれば神様はその一同の澄んだ誠の心を受取り下されて、助からん病人でも助けて下さればまた医者の手放しでも不思議な御守護を下さるのであります。

 

 お言葉にも「医者の手余り神が助ける。」とも仰せ下されてありまして、お医者から、この者はもうあかんと手放しされた人は人間力でこれを助けるという事は出来ない、それを我々がお授けを頂戴して神様のお力で助けるのでありますから、この助け一條の話をよく心に入れて聞いて置かねば人を助ける事は出来ないのであります。

 

 助け一條の話を以って人の心を清くするので、その澄んだ心に者がよく映り天の理がしみ込んで来るのでありますから、まず話一條を以って人の心を清めて行かなければなりまえんその為にはこの別席に於いてよく天の理を我が胸に宿し込んで置かねばならん、天の理を胸に宿しこもうと思えば我が心を美しく清浄潔白にして置かねばいかん。

 

 そして心を美しくしようとするには聞いた話を日々我が身行なってゆかねばならんのであります。聞いた話は聞いた話、我が身の勝手は我が身の勝手と別にして居る様な事では折角海山越えてお地場へ帰らして頂きこうして別の席に於いて、天の親神様直々のお話を頂戴しても、猫に小判の例えと同じ事であって、何の役にも立たんのであります。

 

 それで日々にこの助け一條の話を忘れぬ様胸に叩き込んで置いて何もお授けを頂いてからでないと人を助けられんというのではない、お授けを頂かぬ前にでも人を助けようと思えば幾らでも助ける事はあるのである、今からすぐというて今日からでも助ける事は出来るのでありますゆえ、皆様も充分この助け一條の理を噛み砕いて通って頂きたいのであります。

 

 そして、神様によって身上事情を助けられたものは尚更ウンと精神を定めねばならんのであります。身上を病んだのは丁度家の倒れかかった様なもの、それを神様のお蔭に依って倒れる所を踏ん張って頂いたのであります。倒れかかった家は突っ張りをしている間に腐った所を切り継いで栓を固く入れて丈夫な家とし直さねばなりません。一時だけの精神定めではホンの突っ張りだけしかならん、時が経つに従ってだん/\と腐って来るのであります。

 

 病気の時、精神定めをして助けて頂くのは、ホンの一時の突っ張りに神様がお助け下されるのでありますが、それで我が身が真に助かったのであると思って油断すれば時が経つに従ってその家はまた倒れる時がある様に身上にも又々大きな因縁が表れて来るのであります。

 

 それゆえ、病気の助かったのは一時神様がその家を建て直すためにホンの突っ張りをして下されたのであると思って、油断なく我が身の心得違いの所や曲った所を取り直して、元よりコロリと変った立派な家と立替えねばならんのであります。それでこそ心の立替えが出来、「成る程の人成る程の理」となる事が出来て人の手本雛形として神様のお心に叶う事が出来るのでございます。

 

 懺悔々々と皆は言うが、懺悔という事は前世また今世の懺悔を悔いてそれを打消すだけの働きをする事であって、神様の前でお詫びをするという事だけではないのであります。何ぼ一心に神様に我が罪業をお詫びしても、それを消すだけの働きがなくば何にもならぬのであります。神様は「今までの悪い心を一夜の間にでも改心せよ、どんな病でも助けてやる。」と仰せ下されてあります。何事も精神一つ、心一つの定めように依って難病大患でもお助け下され、因縁罪業をお許し下さるのであります。それゆえ真の懺悔を神様にさして頂こうと思えば、聞いたお話によって我が身の罪業を自覚してそれに伴うだけの働きをしなければならないのでございます。

 

 神様は我々に早く貸物を返せとは言わぬとおっしゃるなれど精神一つ、心一つが台であるから、その精神一つによって、永らく貸物を貸して頂いてそれを充分に使わして貰うおうと、若し貸物返さにゃならぬ様になろうと、皆めい/\の心一つが台であります。

 

 よく世間には可愛い幼子を残して死ぬ人もあればまた若くして未だ花なら蕾の咲きかけた位であるのにこの世の結構さを充分に味わして貰いもせずして身上を返す人もあります。これらは皆、その者の精神一つとは言いながら、実に気の毒な事であるのであります。それでお互いには一旦貸して頂いたこの身上を十分永らく貸して頂いて、何かこの世に一つの効能を残して行かねばならぬのであります。

 

 そしてその身上を返す時にも、今までの埃と徳とを差し引いて、徳の方を残して行かねばなりません。その徳は何も人にやるのでもなければまた人に取られるのでもない。我が身に付き惑うて何時/\までも、来世また我が身が生まれ変わって来る時に持って出て来るのでございます。

 

 そうならこそ、よく世間を見ればオギャアと生まれたその時から因縁のよい所へ生まれて来る人もあればまた因縁の悪い所へ生まれて来る人もあります。神様は皆人間一列可愛い神の子であるとおっしゃるから、あの子可愛いてこの子憎いの隔てはないが、オギャアと生まれたその時から、もうこんなに色々分け隔てた因縁の下に生まれて来なければならぬというのは、皆それはめい/\の前世よりの因縁即ち前世で徳を積んで来たか埃を積んで来たかの違いによるのであります。

 

 さすれば、この世で一生困って通らにゃならんのもまた楽しく送られるのも、或いはまた若死にするのも長生きするのも、これ皆前世にして来た事が今世そうして表れて来たのでありますから、なんでも我々は今世貸物を充分貸して頂く様にお願いすると共にまた日々には罪埃を積まぬ様にして、貸物をお返しする時には徳の方を余計に残して行く様に心掛け、誠真心の精神を持って人を助ける真実の道を踏んで通らなければならないのでございます。

 

 この人を助ける真実の道を踏んで通るお授け人は心を正しく持って行いを澄まして行かねばなりません、でないと神様は滅多に御守護下さる例はありません。人を助ける理というものは銘々の身に神が与えて下さるものではない、皆銘々の誠一つの精神にお与え下さるのでありますから、日々の通り方一つ、心の誠一つが肝心であります。お書取りの中にも、

 

「さあさあ、だん/\のせき、かえし/\のせきをして、さあ一日の日は生涯の心」

と仰せ下されてある通り、一日は生涯と心定めで、その一日の日の心を生涯忘れぬ様に、どんと一つの精神を定めて通ったならば、何時/\までも神の守護は変らないのであります。それが、お授け頂戴するとやれ/\となって、その定めた精神もだん/\薄らいで来る、こっちの心が薄らいで来るから神様の御守護もまた薄らいで来るという道理で、神様は皆「心通りの守護する」と仰せ下されたのであります。

 

 それで生涯の心とは変らぬ心、何時/\までも違わぬ心という事であるから、その心を以て一生通ったならば神の自由用も変る事なく、精神一つによってどんな大きな働きも神はさそうと仰せ下されるのでございます。

 

お筆先の中に、

 

このようのにんげんはじめもとのかみ

だれもしりたるものはあるまい

 

どろみずのなかよりしゅごうおしえかけ

それがだん/\さかんなるぞや

 

このたびはたすけいちじょうおしえるも

これもないことはじめかけるで

 

いままでにないことはじめかけるのは

もとこしらえたかみであるから

 

と仰せられてあります。我々人間が今日こうして結構に暮して居るのも皆元々拵えて下された真実天の親神様のお蔭であるという事を思わねばなりません。人間一人前に成長すれば自分独りで大きくなった様に思うから皆違う、元々拵えて貰った時の事は拵えた親の外は誰も知って居るものはないのであるから、我々人間の親である天の親神様のおっしゃる事は千に一つも違う事はないと思うて、今日こうしてお互いに結構に暮しているのも皆その元は天の親神様が苦労艱難して、この無い世界無い人間をお拵え下されたからであると思うて、その御恩を日々に忘れない様にして通らねばならんのであります。

 

 元々、この世界は泥の海であって何にもなかった、ただ月日両柱の親様だけがお出で遊ばされたばかりであります。そこで月日両柱様は御相談の結果、何でも人間というものを拵えてその人間が陽気遊山にこの世を暮すのを見て楽しみまた神や神やと言うて崇めて呉れるのを見て喜ぼうやないかと御相談が纏って、あちらから道具を引き寄せこちらから道具を引き寄せてそれに神名を付け、五分と五分との理を以てこの人間をお拵え下されたのでございます。その泥海古記の道すがらはお筆先にも出てあります通りに

 

このようをはじめかけたるしんじつを

だれかしりたるものはあるまい

 

これからはどうにょなこともだん/\と

ゆうてきかするうそとおもうな

 

にんげんをはじめかけたはうおとみと

これなわしろとたねにはじめて

 

このものにつきひたいないいりこんで

だん/\しゅごうおしえこんだで

 

このこかずくおくくまんにくせんにん

くひゃくくじゅうくにんなるぞや

 

このにんをみつかみよさにやどしこみ

さんねんみつきとどまりていた

 

それよりもうまれだしたわごぶからや

ごぶごぶとしてせいじんをした

 

このものにいちどおしえたこのしゅごう

おなじたいないさんどやどりた

 

と仰せ下された様に、泥海中からだん/\と人間をお拵え下され育てて下されまして食物も着物もお与え下され、その他文字や学問などもお仕込み下されて知恵というものをおつけ下され、日々は身の内胎内へ入込んで温み水気の五分五分の理を以て御守護なして居て下さるのでございます。また何をするのもかをするのも皆この十柱の神様の御守護があるので始めて不自由なく暮さして頂く事が出来るのでありますから、我々は日々にその御恩を忘れず、この身は我が物であると思うて勝手な振舞いをせずに、しっかり神様の理に凭れて通らなければならないのであります。

 

 それを自分独りで大きくなって来た様に思うから色々な勝手の重いが出て来て、親の恩を思はぬばかりか未だ様々の因縁埃を積んで通るものだから、遂には神様に身上悩みを以てお知らせして頂かねばならぬ様になるのであります。御言葉に、

 

なににてもやまいというてさらになし

こころちがいのみちがあるから

 

ともお教え下されてあります。病気はこの心違いの道をお知らせ下されたのであって、温み水気の五分五分の理が狂って来るから起るのであります。それゆえ、この人間始め元の神様の御恩と日々の結構なる御守護とを胸に叩き込んで置いて通ったならば一つ埃も積まぬ様に我が身助かる事となるのでございます。

 

 この神様の御恩を真実胸に畳み込んだならば、この身は勿論の事その他一切凡ての者は皆神様が我々にお貸し与え下されて居るものであるという事が分かって来る。従って一切の借物の中に生活して居る我等人間は、我が身の事も総べての事もこれは皆神様の仰せのままにして行かねばならぬものであるという事が分かって来るのであります。

 

 そして凡ての事を神様の為にと真実行っていったならば、神様もお喜び下されるしまた我れ人ともに嬉しいのであります。この神様に喜んで頂き人を喜ばして通る理はいつになっても消えて無くなるものではありません。他人に付いて行くものでもありません。皆自分のものとなり我が身に帰って来るのであります。

それでお神楽歌の中にも、

 

やしきのつちをほりとりて

ところかえるばかりやで

 

と仰せられてあります。即ちこの世の中は皆神のお屋敷であって、神様のものでありますから、例えば金をお供えするにしてもそれは何も自分の物を他人にあげた様に無くなってしまうのではない、成る程お金はなくなってしまうがその代わりまた何かに替えて神様がお返し下さるのでありますから、言わばこちらの土を取ってこちらへ変えことをしたようなものであって、何もなくなってしまうものではないのであります。

 

 形のものをお供えして無形の徳というものを頂き、其の徳がまた何かの形となって帰って来るのでありますから、世の中では、人の為にして損をするという事はありません。人の為に尽くしてもそれはつまり我が身の為の事をしているのと同じ事でありまして、結局人を喜ばすだけが徳というようなものであります。これが神様の「ところかえるばかりやで」と仰せられた所であるのでございます。

 

受取るのに受取れんのは我が俺がという心」であると仰せ下されました。我というのは角のあるものである。その角のある我という心を棄てなければなりません。その我が俺がという心があっては、それは人を押えるという理ばかりでなくまた神様を見下した高い心の理に当るのであります。この心を棄てるまでは神様はどうしてもお道の道具には使って下さらぬのである。御本席様は常に御教祖様の御言葉に従って何事によらずその通りにお勤めになりました。それで親様も本席として始終御自身の片手の如く思召して御座ったのであります。お言葉にも、

それはそうや、なれどもこうやと道理を出しては一つの道とは言えん。

と仰せ下されてありまして、成る程お話はそうに違いはないがそんなに出来るものではないかと、または自分の家はそうはいかぬとか色んな道理を出しては、それは神様の理を踏み付けて居る事に当って踏み付けて置いてそれで受取って頂くという事は出来ないのであります。

 

また「この道はハイ/\と言うて這い上がる道である」とも仰せ下されてある通り、上の人の言葉、理の上から流した言葉はハイと素直に受けて我が身の道理や自分の勝手を出さずに、喜び勇んで通らして頂くので、神様にも受取って頂きまた立派な道具にも使って貰う事が出来るのでございます。

 

 お道では「我身を捨てて人の為に尽くす」という事をやかましく申して居りますが、それはその我が身を捨てるという事はどんな事かと申しますれば、何も自分の着物や食物やまた形の上の事や身体を捨てて掛かるというばかりではありません。そんな事よりも寧ろ、我が身の心を捨てるという事でありまして、即ちお助け一つするにしましても、我が身の勝手や気儘な事を捨てないでお助けに行った所で先方に誠が映る道理はない、自分の因縁、癖、性分などの取り難い捨て難いものを捨てて誠一つの潔白な心となってお助けをするのであるから、始めてその誠が先方に映って映ったその先方の誠の心が先方の身体を助けて、ここに助け一條の実は挙がるのであります。

 

 それゆえ、皆銘々に自分の癖や持ち前の性分という奴がある、その癖性分を捨ててしまって素直な心になったならば、神もまた素直な心を以て御守護して下さるのでありまして、これはお互い人間同士の事から考えても分かる事であります。それで神様もこのお道では素直正直が第一であると仰せ下されるのでございます。

 

 また素直という事は物を繋ぐ理にあたるのであります。自分の道理や勝手を出すとどうしても先方の意を打消してしまわねばならぬ、それでは先方の意とこちらの意とを切る理になって、なんぼそれからその人の言う通りになっても、そうして一旦切ってから繋ぐのと切らずに繋いで置くのとは理に於いて大いに違うのであります。それで、切っては繋ぎ繋いでは切りして居っては同じ反物にしてもそれは裏地にしかならない、木綿糸でもかまわん、細く長く繋いでさえあったならば織り上がったら着物の表となるのでございます。

 

 ある時、今の船場大教会の役員さんに目を病んだ人がありました。それが神様のお蔭で助けて頂いたのですが、三年後にまた再び目を患って今度は盲目となってしまったのであります。そこで梅谷さん(故本部員梅谷四郎兵衛氏)はその役員の家内を集めて神様に懺悔をしてお願いした所が、三日の間に助けて頂いて目を開かして貰ったのであるが、三日経つとまた元の盲目になってしまった。そこで皆々びっくりして、直ぐ御教祖様に伺い出ると、御教祖様は、

切れ/\になって結ばれた糸は捨てにゃなろうまい

とのお指図であったので御座います。こんな具合に銘々の勝手道理を楯にして切れ/\に繋いでもそれは何にもならないのでありますから、例えそれは木綿糸の如くつまらぬものであっても、細いものであっても、切れずに繋いでさえあったならばつまらぬものはつまらんながら、よいものは尚更の事、それ/\皆神の道具に使って頂く事が出来るのでありますから、皆様も教会へ勤めをして下さる中に於いて、どんな事もありどんな事も見えたり聞いたりするけれども、そこは神様という事をよく思案して譬え身は細くても長く続く様勤めさして頂いたならば、それが誠であって神も受取り下さるのでありますゆえ、この我が俺がという「我」の精神を取ると共に又長く続く様にして日々の勤めをして頂きたいもんでございます。

 

 そこで、親に安心をして頂くのには兄弟仲良くせねばなりません。我々は皆月日二柱より生まれて来た人間であるから一列は皆兄弟である。兄弟であれば兄弟であるように仲良くせにゃならんが理、この兄弟仲良くという意を以て誰がいかんの彼がいかんのという心を捨てて、一列に仲良く助け合うという精神を以て通ったならば、それでこそ真に親に安心さすりとなるのであります。

 

 お互にもよく御存知の如く、親というものは美味い物を食べさして貰ったから嬉しいの、またよい着物を着せて貰ったから嬉しいのというのではありません。成る程子供が親の為思って美味い物を食べさして呉れたり良い者を着せて呉れたりすると嬉しいには違いはありませんが、そうして子供が始終内輪揉めをして喧嘩をして居っては折角いいものを食わしたり着せたりして呉れても何も嬉しい事はないのであります。

 

 それよりも、たとえボロを着て居っても子供が皆仲良く暮していて呉れてると、親というものは何よりも嬉しいのでありましょう。それでお互いに兄弟仲良くして親に安心を与えるというのが、親に対する第一の孝行であります。

 

 銘々は皆天の親神様から拵えて頂いた人間であるから、世界一列は皆兄弟親類であって神の目からは、人間は皆神の子であります。そのお互いが自分勝手の事ばかり考えて他の事はどうなってもという様な心を持ったり、またお互いに日々鎬を削り合う様な事であっては、天の親神様に対して誠に申訳のない事であるのでございます。

 

 あいつは良くない奴だと言うて排斥するのはいけない、良くないものなら良くない様に、善に向かって導いて行って教えてやらねばなりません。兄ならば弟を可愛がるよう、弟ならば兄を尊ぶ様にして皆お互いに仲良くして助け合って通って行くのが真の道であるのでございます。お道はこの一列兄弟、互い立て合い助け合いという事を教えるのがこの道であって、またその通りに通って行かなければ誠の道であるという訳には行かぬのであります。

お指図にも、

「あれがいかん、これがいかんと云ううちは古くても新しいのである。」

と仰せられてあります。実際その通りでありまして、教会でも大分古い教会であるのに盛大にならない、却って新しい教会の方が盛大になっていって居る所が沢山ございます。これはそのお指図の通りに、余りに人間心ばかりが強くて神様の理というものがないものだから、教会に居る人がお互いにあれがいかんこれがいかんと、互いのアラばかりを探り合って一手一つの心、神様への誠という理がないので盛大にならぬ、御守護を頂くという事が出来ないのでございます。

 

 それでなんぼ教会は古うても理は新しいのであって、これは教会ばかりではなく、布教する人でもまたその通り、また布教せぬ人やとてその通りで、「人の埃見える間は我身にも埃があるのや」と仰せ下された通りで御座います。それゆえ、互い互いはその欠点の探り合いなどをせず、一列兄弟のよいのを神様が見て喜んで下され、神様に喜んで頂くのでお互いに結構に御守護の理を下げて頂く事が出来るという様になって来るので御座います。

神様は、

 

なんぼしんじんしたとても

こころえちがいはならんぞえ

 

とも仰せ下されて居りまするし、また、

 

だん/\とくさがしげりてみちしれず

はやくほんみちつけるもようを

 

とも仰せ下されてあります。なんぼ御教理を数重ねて聞いてもまた別席運んでも、めい/\の勝手思案を出してはどうもならん、神の話し聞いてお道也お道やと言うても真実神のお言葉を守って神様の望んで御座る様に心を澄まさねば、道の中の害、却って神様の御名を汚すようになる。

 

 そこでめい/\は我が身の心を十分澄まし切って、その澄んだ心に神様のお姿を宿し込んで、世界多くの艱難苦労して居る人を助け出さして頂かねばなりません。お授けはその澄んだ美しい心の理にお与え下される天の徳でありますから、お授けを頂戴したならば我身我が家の事は神様にお任せして、助け一條の道を御教祖様の万分の一でも通らして頂くというつもりで、日々勤めて貰わねばなりません。

 

 神様は「知者や学者は後回し」とおっしゃった。道を通るのには阿呆になれと仰せになったのである。めい/\の我身思案を出して居っては真の信心は出来ぬ。誠一つの精神を以て、その誠の心を世界隅より隅へと押し流して、神一條の道を付けねばならぬ、さすれば神様は「病まず死なずに弱りなきよう」の珍しい助けをして下されて、甘露台という喜びが来るのでありますから、先ず第一に我が身の心に繁った草を取り払って神の理を胸に宿して、世界の為人の為道の為に我身忘れて尽くすのが誠であって、その誠はまた永劫末代孫代々の代に至るまで我が身の徳となって付き惑うのであります。で皆様もどうかこの神様のお話を充分聞いて、家内一同にもそれを伝え、一致した心を以て結構な神様よりのお指図を頂戴するようにお願いし、お授けを頂戴した上はまた十分にお働き下さらむ事を望んで置く次第で御座います。

 

大正十一年一月二十三日印刷

大正十一年一月二十五日発行

 

奈良県山辺郡丹波市町字古留百十二番地

 

発行者 天理教同志会